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日々のものづくり&気になること。

 

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食べ物のこと

食べ物のことを色々考えてきて、少し落ち着いてきたので今の感覚を書いてみる事にした。

うちは甘いものとか添加物とかを避けるのを、無理せずにやってる感じだけど、でもある程度遠ざけると私自身の感覚もいつの間にかそれらから遠ざかってて、もう前のようには戻れない感じになってきている。その感覚が少なからずいいものを選ぼうとする力になっている。疲れた時くらい本当はもっと楽をしたいけど、楽の仕方も選んだものじゃないとストレスになって最初はつらかった。生協に加入してからは随分と楽になっているように思う。

子どもについては、お友達といる時は・・とか、出かけた時は・・とか、たまーには自由に甘い物とか好きな物を食べさせてあげようって思うけど、意外とベーッて出しちゃったり、残しちゃったり、そこでも意外と彼自身でシンプルな物を選んだりする。
全部ではないけど、あれっ?子どもはみんなこういうのが好きって訳じゃないんだ?ってなる。

そういえば、私自身の感覚も子どもに育ててもらったところがあるんだった。このおかずのどこが嫌で食べ残そうとするのか?の感覚を探って、あぁこれかな、分かる気がするって所を調理する時に気をつけたりしたら、辛いのと苦いのと固いのとかとほかの一部の食感以外はほぼ食べてくれてる。

最初は色々知ったりして頭で考えて避けてたけど、だんだんそういう事で頭をいっぱいにし続けることが日常生活に支障をきたしてくるきがして?!個人的な感覚でやるようになってきた。でも、それでもあまり変わらなくてなぁんだ・・これでいいんだなぁという感じ。
個人的な感覚では、砂糖や添加物がたくさん使われてるものは、素材の味が遠ざかる。素材の味がして美味しい物は子どもも好んで食べてくれる。
砂糖は口の中にのこって、これが再石灰化を妨げるのかも?という感覚がある。食べる頻度に気をつけてたら、子どもは最近ハブラシに歯磨き粉をつけないでも問題ない感じになってる。大人は歯周病予防でなかなか歯磨き粉を使わないわけにはいかないけど、減らしたりはできている。

うちは牛乳とお肉もできるだけ避けている。牛乳は、牛が人と同じで子どもを産んだら分泌できるようになるもので、常に絞るためには常に出産してるって事なんだろうか?とか、母体の食べ物や薬やストレスの影響が大きいという実感もあって、牛がどのように生活しているのかが気になる。お肉もそうだけど、大量生産で安売りされているようなものはあまり信用できない気がして、そういう意味で信頼できるものを選びたいという感じ。でも選ぶとやっぱりとても美味しいんだけどその分高価であることとの葛藤が出てくる。でも自分の環境からいくと「たまに食べるのが現実的」という判断をしている。

子どもはなぜか生まれつき牛乳が好きではなかった。私は小さい頃大大大好きでぐびぐび飲んでたんだけど、今は乳糖不耐症。それで今は豆乳生活で落ち着いている。

日本の食環境が、私個人の感覚に寄り添っていってくれれば幸せだなぁと思うけど、最初はそう願ったんだけど、色々知るうちに私みたいに願う人々はいるはいるけどごく少数のようだった。色んな価値感もあるし、生きるために食べ物を選べないという家庭もきっとたくさんあるんだ。それは仕方が無い。
比較的近い家庭が集まった園に子どもを通わせているけれど、それでもやっぱりちょっとしたこだわり度の違い?に気を遣ったり遣われたり・・。そういう摩擦?に耐えてこだわりをつらぬくにはとてもパワーがいると実感している。
それでやっぱり私としては自分ちの自分ができる範囲の中で無理せず選ぶことでいいかなーという判断をしている。ハレとケの「ケ」をどうするか?で考えればいいかなって。

TEDで、アメリカの食について語るプレゼンを見たんだけど「ん・・?普通のことを言ってる・・?」と思ってしまった。いつも感心するばかりのプレゼンが多いけどこれには、あれっ?って。これでアメリカと日本の食については環境がまるで違うんだという事を知った。
ジェイミー・オリバー 「子ども達に食の教育を」 (TED Prize授賞講演)

そのあとでアメリカの食の問題を映画にした監督のインタビューを読んで、さらに日本との環境の違いに驚いた。アメリカの田舎は日本の田舎と違って家庭菜園とかもしなくて、流通もなくて野菜を食べずに加工食品や炭水化物ばかりで、肥満なのに栄養失調の子どもが多いのだそうだ。
町山智浩 映画『FED UP』が描くアメリカの飢餓・肥満問題を語る

これと比較するのも良くないのかもしれないけど、日本はとても恵まれているのを実感した。
自炊しようとするとすぐに野菜を食べられて、添加物も避けられる。調味料も、だし・味噌・醤油・みりん・塩・酢・菜種油とかごま油とかの身近なものを慣れさえすればすぐに美味しく安全に食べられるし。少し気をつけるだけで甘い物を食べ過ぎなくてすむ。
そんな感じで、パワーのある人はもっとこだわればいいけど、そんなにパワーのない人はそれくらい気をつけるだけで十分なのかもと最近肩の力が抜けてきた。
それで、低年齢になればなるほど感受性が強くて、色んな影響を受けやすいから、子どもには大人が気をつけてあげたほうがいい、という事なんだと思う。(うちの子は特に影響を受けやすいタイプのようだから、普通よりも刺激になるものを気にしていて丁度良いのでは?という感じ。)情報も、そういう色んな背景があるのを頭においておいて取り入れるのがいいよね!あとは好みで・・?

こういうグレーゾーン・・・・どうでしょうか。私は立ち位置が見つかった気がしてとりあえず満足だったりしますー。

お金をはさまないこと?

昨日今日へこんでしまっていたところ、息子と2人で湧き水をくんで野草摘んでご飯作るのも手伝ってもらって食べたらとても癒された感覚があって気になった。

野草だけのご飯という訳ではなかったんだけど、自分で採りに行って調理して食べるっていう行為はやっぱりイイのかも。息子も何か感じたのか「ねぇかあちゃん!水道のお水ってお金で買ってるんでしょ??」って聞いてきてた。

お金を使うってストレスになってたりするのかな?それともお金と引き換えに手に入れてプラマイゼロみたいな感覚に無意識になっている?

前にネットの記事で、太陽光発電の設備を簡単に作って自宅での仕事で使う電力を賄っている方がいるのを知って、いいなあと思ったことがあった。私もネットしたり仕事でもパソコン作業でメールでやりとりしたりで電気を使うから、そのエネルギーを自分で賄えたら素敵だなぁって。その上災害で停電した時とか、車に積んでの避難も可能だ・・と備えにもなると想像もして尚更興味が湧いた。(行動にうつせてはいないけど・・)

湧き水や野草についてもそう。それから息子がご飯とお味噌汁を作れると、親に何かあっても頼りにさせてもらえるし、本人の自立に役立つし。そういえば思い出したけど、今日息子は味噌を溶き入れながら「ご飯とお味噌汁が作れたらぼくも一人暮らしできちゃうんでしょー?」とも言っていたなぁ(父ちゃんも、父ちゃんにそう言われたみたい)。逞しく育っていただきたいものだなぁ。

今日癒されたのはそういう事からなのかなぁ。癒しというか安心というか、気になる感覚。

全部自分で!は難しいけどせっかくこういう所に住んでいるんだし、そうやって少しでも無理なく(楽しく?)自分で賄える事を、自分なりに見つけていけたら・・どんな感覚になるんだろう?

春のささやかな

新しい葉

朝ふと見上げると、林の木々から新しい葉っぱたち。やわらかでツヤツヤできめ細やかで、これはきっと今しか見られないキレイな生え方・光り方なのだろうなぁ・・と色々観察していると心がウキウキしました。最近は万全とはいえない体調で過ごす日々なのですが、こういう晴れて空や植物がキレイに見える日だと少し元気を取り戻します。私自身もまるで太陽の光にあたって光合成とか発電とかでもしているかのようです〜

色とりどりの花もみかけるようになったり、野草を食べたりして、私の五感にも春がやってきたなぁという感じがしてきました。

うーん、色々感動したものを写真に撮ってみようとしましたが、魅せられるような腕がなくて残念・・

 オオイヌノフグリ
オオイヌノフグリという、小さな小さな青い花を咲かせる雑草があるのですが、それが一面に咲いた畑がとてもキレイ。
小さな花もたくさん集まれば胸をきゅんとさせる力を持つのだなぁ。雪景色のモノトーンからの変化だから際立つのかな。ささやかなものに心を動かされる事がうれしいです。

事実と妄想

この間書いた記事「いつもお世話になっております」で、私は思考があちこちに飛んで対話の中でもとんちんかんな事を言ってしまっているのではないか、と不安いっぱいになっていたんだけれど、それから色々見聞きし、少し前向きになることが出来てきました。

友人がなぐさめの言葉をかけてくれたのもありがたかったのですが、今、世を騒がせているナンタラ細胞のOボカタさんを批判する人・信じる人の意見が書かれたブログ記事をいくつか読んで観察していると、色んな想像の仕方があって「フムフムこの人は事実以上のその部分でそんな風に想像を膨らませるんだ・・あれ?みんなも結構私と一緒で思考があちこちに飛んでいっちゃってる??」と思うようになりました。想像って、それぞれ自分の身近な物事を材料にしてするしかないのでしょうか。

また、仕事などでアイデア出しを何人かでしていると、そんな思考があちこちに飛びがちな性質があると意外な案が浮かびやすいのかもとも思えました(うまくいけば・・)。そして脱線しすぎたらまた戻って来られればいいのかも?脱線しちゃいけないと思うと頭が固くなってしまうけれど、許されるのであれば気づいた時に戻せばいいと思えるととても気が楽になれます。

そしてたまたまある教室で聞いた話。「瞑想をする時、必ず頭をからっぽにしないといけない訳ではなくて、頭の中に色々浮かんでくるのはOK。良くないのはそれを追う事。物事が頭の中に浮かんでくるのは事実、それを放っておけずにどんどん追ってしまうのは妄想。妄想がNG。」とのこと。事実と妄想(想像)を出来る限り区別して色んなことを観察していきたいと思いました。

でも、私のようなイメージを仕事にするような立場だとどうなんでしょう?
実際に何らかの形に出力すれば事実として扱えるようになるのでしょうか。そこから先がうまく想像できないのは、あまり手を動かせていないから・・?気になります。

考えること

植物写真家・埴沙萌さんの本や映像などをみていると、植物の美しさと、そのしくみにとても感心する。子孫を残すために、独自のやり方で種を自分で飛ばしたりするものがいたり、それを風や虫たちに託すものがいたり。よく考えてそのしくみを編み出したんだなぁ、という感じがして愛おしくもなってくる。

植物はただ、そこにいるだけのように思えるのに。
気温や光や、何かしらの条件がそろうと芽を出し、すくすく育って、やがて種を土へ落とし、枯れていくのを繰り返す、その決まった流れの中に、よくできたしくみがつまっている。考えていないようで、よく観察すると考えてそうしているようにみえてくる。

それも「考える」ということにあてはまるのなら、私のいつもやっているつもりの「考える」ってなんなのだろう?別にしなくてもいいことをしているのかな?
脳みそのない植物が、あんなに精巧に出来ていて、美しくもあるんだから。頭の中をぐるぐるさせずに行動するだけでよかったりするのかもしれない。と思った。

ふと思い出した。
森に詳しい方のお話会での質疑応答で「なんで間伐作業をする必要があるのでしょうか?」というのに対しこんな風にこたえていた。
「自然に放っておいても間伐を行うのと同じようないい状況になるんだけれど、それには100年くらいかかってしまう。だから人間が手を加えるんです。」

人間には脳みそがあって、効率よく目の前の状況を良い方向に変えていけるんだな、「こういう状況が好ましい・そのためにはこうするのがいい」という知恵を道具のように使っているのかもしれないなぁと思った。植物のしくみにも知恵のようなものを感じるけれど、進化して生き残ってきた形がそうみえるだけなのかもしれない。

植物が何代にもわたって進化して生き残るけれど、人間は1人でも、植物より多くの知恵も持てるんだ。何のための知恵なのか、知恵をどう使うのがいいのかとか、自分なりに考えてみたくなった。生きるため、楽しむため、よい社会にするため・・・?
あれ?考える話が、知恵の話になってしまった。

埴沙萌さんのホームページ