久しぶりにちひろ美術館でゆっくりできた。
何度か見ていたはずの作品や、知っていたはずのちひろさんの戦争への想いが、今までと違ったカタチですっと胸に入ってきた。
今まではきっと「戦争は嫌だよね、人がたくさん死ぬから。けれど私は実際に体験してないからちひろさんのように熱い想いは持てないな。」みたいな感覚でみていた。「私は何になら熱くなれるんだろう?ないな・・」とも思っていた。
けれど今日は「きっと政治的に対立しているだけで、戦いたくて戦ってる人は実はとても少なかったりするのかもしれない、子どもたちは感受性が強い無垢な存在だから本当はもっとのびのびと過ごせる環境で育てられなければならないんだ」と、自分なりにちひろさんに共感した感じになった。
最近、身近な集まりでささいな、ちょっとした対立があって、私はその中で右往左往したという出来事があった。自分の考えを確認したつもりでも色んな言葉の勢いに流されてよく分からなくなる事が何度もあった。でも、もっとお互いによく知り合えてさえいれば、平和に状況が移り変わっていくだけだったのかもしれないとは感じていた。
何かのすれ違いがあって悪気無く心が傷つけられ、その事によってまた悪気無く相手側の心を傷つけ返してしまうことがある、というのを知った。
なんだか無意味にも思える対立で、やりきれなさも感じた。
またそんな自分もじつは。中立のような書き方をしてしまっていると思うけれど、自分だってあっちへフラフラこっちへフラフラ。事態を大きくすることに手を貸してしまったと思う。それも含めた上でのやりきれなさなのだった。
比べるような話じゃない!とも思うんだけれど・・
傷つくのが心か身体かというのと規模の大きさが違うだけで、傷つけ合う事のむなしさと、平和を願いながらも翻弄される弱さみたいなものが、戦争の中にもあるのかもしれない?
(私は身体を傷つけられた事がないからそう感じてしまうだけなのかもしれない。そうだとしたらとても申し訳ない。ささいな対立を戦争なんかと重ねて考えてしまうなんて、どうかしてるのかもしれない。)
心の傷は目に見えなくて、知らず知らずのうちに、、というのもあって気をつけようとしても難しいかもしれない。けれどそういう点では、身体を傷つけることを止めるほうが簡単なんじゃないか?と書きながら思った。
心の場合はまた、前向きな何かにつながれば、傷に見えてただけという風になる事もあると思うけど、そういうのは身体の傷にはなさそうだ。
かもしれない、ばかり書いてしまった。でも私は、傷つけるのも傷つけられるのも、誰かが傷つけられてるのを見るのも嫌なのだ。
子どもと一緒にいると、その純粋さ?なんだろう?とても心惹かれるし、学ばされるし、幸せだと思わせてもらえる。子どもが幸せな世界は大人も幸せといえるかもしれない。その環境を作るのは大人。分からないけど、改めて考えさせられた一日になりました。
<追記>
そういえば、この前日にちょうど「戦争に加担してる企業の商品を買うのをやめましょう」って時々聞くけど、どういうことかな?って調べて色々知って考えたのでこういう事を書いたんだと思う。
あと、自分の状態でこんなにも感じ方が変わるんだなぁということが興味深かった。色々な角度から情報を得ると、スパッと言い切るとか、どっちかが完全な正義だとか言うことが難しくなるんだなぁとしみじみ思ったりもした。そしてそこをタイミングを見計らってあえてスパッと言い切るとかいうのも、上手いこと状況を変える戦略になったりするんだなぁとか。
これを読んだ人は、いったい何書いてんだ?って風に思ったりするだろう。
私がまとめ下手なのもあるけど、世の中ってきっとこんな風に分かりやすくないものなんだ!分かりやすく白黒ついてるように見えるものは、演出だったり、視野が狭かったりするのかもしれない。自分が分かりにくくてもあまり心配しないで、前を向いたまま行っちゃおうと思いました。(だからこの記事もこれでいい、という事にする)