memo

日々のものづくり&気になることいろいろメモ

事実と妄想

この間書いた記事「いつもお世話になっております」で、私は思考があちこちに飛んで対話の中でもとんちんかんな事を言ってしまっているのではないか、と不安いっぱいになっていたんだけれど、それから色々見聞きし、少し前向きになることが出来てきました。

友人がなぐさめの言葉をかけてくれたのもありがたかったのですが、今、世を騒がせているナンタラ細胞のOボカタさんを批判する人・信じる人の意見が書かれたブログ記事をいくつか読んで観察していると、色んな想像の仕方があって「フムフムこの人は事実以上のその部分でそんな風に想像を膨らませるんだ・・あれ?みんなも結構私と一緒で思考があちこちに飛んでいっちゃってる??」と思うようになりました。想像って、それぞれ自分の身近な物事を材料にしてするしかないのでしょうか。

また、仕事などでアイデア出しを何人かでしていると、そんな思考があちこちに飛びがちな性質があると意外な案が浮かびやすいのかもとも思えました(うまくいけば・・)。そして脱線しすぎたらまた戻って来られればいいのかも?脱線しちゃいけないと思うと頭が固くなってしまうけれど、許されるのであれば気づいた時に戻せばいいと思えるととても気が楽になれます。

そしてたまたまある教室で聞いた話。「瞑想をする時、必ず頭をからっぽにしないといけない訳ではなくて、頭の中に色々浮かんでくるのはOK。良くないのはそれを追う事。物事が頭の中に浮かんでくるのは事実、それを放っておけずにどんどん追ってしまうのは妄想。妄想がNG。」とのこと。事実と妄想(想像)を出来る限り区別して色んなことを観察していきたいと思いました。

でも、私のようなイメージを仕事にするような立場だとどうなんでしょう?
実際に何らかの形に出力すれば事実として扱えるようになるのでしょうか。そこから先がうまく想像できないのは、あまり手を動かせていないから・・?気になります。

考えること

植物写真家・埴沙萌さんの本や映像などをみていると、植物の美しさと、そのしくみにとても感心する。子孫を残すために、独自のやり方で種を自分で飛ばしたりするものがいたり、それを風や虫たちに託すものがいたり。よく考えてそのしくみを編み出したんだなぁ、という感じがして愛おしくもなってくる。

植物はただ、そこにいるだけのように思えるのに。
気温や光や、何かしらの条件がそろうと芽を出し、すくすく育って、やがて種を土へ落とし、枯れていくのを繰り返す、その決まった流れの中に、よくできたしくみがつまっている。考えていないようで、よく観察すると考えてそうしているようにみえてくる。

それも「考える」ということにあてはまるのなら、私のいつもやっているつもりの「考える」ってなんなのだろう?別にしなくてもいいことをしているのかな?
脳みそのない植物が、あんなに精巧に出来ていて、美しくもあるんだから。頭の中をぐるぐるさせずに行動するだけでよかったりするのかもしれない。と思った。

ふと思い出した。
森に詳しい方のお話会での質疑応答で「なんで間伐作業をする必要があるのでしょうか?」というのに対しこんな風にこたえていた。
「自然に放っておいても間伐を行うのと同じようないい状況になるんだけれど、それには100年くらいかかってしまう。だから人間が手を加えるんです。」

人間には脳みそがあって、効率よく目の前の状況を良い方向に変えていけるんだな、「こういう状況が好ましい・そのためにはこうするのがいい」という知恵を道具のように使っているのかもしれないなぁと思った。植物のしくみにも知恵のようなものを感じるけれど、進化して生き残ってきた形がそうみえるだけなのかもしれない。

植物が何代にもわたって進化して生き残るけれど、人間は1人でも、植物より多くの知恵も持てるんだ。何のための知恵なのか、知恵をどう使うのがいいのかとか、自分なりに考えてみたくなった。生きるため、楽しむため、よい社会にするため・・・?
あれ?考える話が、知恵の話になってしまった。

埴沙萌さんのホームページ

背守り 子どもの魔よけ 展

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「背守り」って知ってますか?私は初めて知りました。
昭和の初め頃までは子どもの無事成長を願い、着物の背中の部分に魔除けの刺繍を施していたそうです。
普段から私は背中(首の後ろ)に刺繍が施された洋服に惹かれがちで、それが子どものお守りになっていたという事実でさらに引力を増強され、子どもと一緒に行ってきました。
『着物を彩る祈りのかたち、子を慈しむ母の手仕事』というコピーも素敵です。

実物をみていると、込められた想いがあたたかくふわふわっと伝わってくるようで心地よい時間を過ごすことができました。身につけるものに想いを込めるっていいなぁ。ブックレットを購入しましたが、やはり実物がいいですね。自分でも刺繍したくなって、色んな紋を紙に描き写して練習してみたりもして、ワクワク・・。

ただの好みなのか、母だからなのか、ワクワクします。もしかして前世で身近だったのかも・・と思えるくらい。これまでは和の物に惹かれる事が少なかったので嬉しくなりました。

大阪の展示が終了した後は、東京にも行くようですよ。

【背守り 子どもの魔よけ 展】
場所:グランフロント大阪タワーA 12階 (大阪市北区)
日時:2014年3月7日(金)~5月20日(火)/10:00~17:00/入場無料
休館日:水曜日
“子どもの魔よけとして着物の背中に縫取られた「背守(せまも)り」、端切れをもらい集めて綴った「百徳(ひゃくとく)着物」。本展では、昭和の初めころまで子どもの無事成長を願い作られていた祈りの造形の様々を通して、かつての衣文化の豊かさを伝えます。”
http://www1.lixil.co.jp/gallery/exhibition/detail/d_002767.html

いつもお世話になっています

最近誰かと話していると、自分はすぐとんちんかんな方へ思考が流れていき、話の筋からずれた事を言ってしまったりしてるなーという事に気づく。周囲にはとっくに知られたことなのかもしれないけれど、最近気づいてしまった。大人になると、変な所を丁寧に指摘してくれる人なんていなくなるのだ。みんな大人だから、これまでそっと流してくれていたに違いない。

話しながら自分でも内心、あれっ?とも思うけどすぐに修正するまではできないでいる。でもそれを怖がって話さなくなるよりはマシで少しは何かにつながってはいる・・(と、自分では思う)。
周囲の人はそれでもよく自分と話してくれているものだな・・と感謝の気持ちすら沸く。きっと気を悪くして離れてしまう人もいる(いた)のだろう、、これをもし直せるのなら是非直したいものだ。でも会話を重ねることによってしか治せない気がする。(SNSではきっと治せない。独り言が多くなっているし、文字で対話してても文章を考えて書けるから。この記事を書くにあたっても「とんちんかん」の使い方が合ってるか意味を調べてたりとかするし)めげずに臨んでいくしかない・・?!

こんな自分と接してくださっているみなさま、いつもお世話になっています。ありがとう。

感じ方が変わった

久しぶりにちひろ美術館でゆっくりできた。
何度か見ていたはずの作品や、知っていたはずのちひろさんの戦争への想いが、今までと違ったカタチですっと胸に入ってきた。

今まではきっと「戦争は嫌だよね、人がたくさん死ぬから。けれど私は実際に体験してないからちひろさんのように熱い想いは持てないな。」みたいな感覚でみていた。「私は何になら熱くなれるんだろう?ないな・・」とも思っていた。
けれど今日は「きっと政治的に対立しているだけで、戦いたくて戦ってる人は実はとても少なかったりするのかもしれない、子どもたちは感受性が強い無垢な存在だから本当はもっとのびのびと過ごせる環境で育てられなければならないんだ」と、自分なりにちひろさんに共感した感じになった。

最近、身近な集まりでささいな、ちょっとした対立があって、私はその中で右往左往したという出来事があった。自分の考えを確認したつもりでも色んな言葉の勢いに流されてよく分からなくなる事が何度もあった。でも、もっとお互いによく知り合えてさえいれば、平和に状況が移り変わっていくだけだったのかもしれないとは感じていた。
何かのすれ違いがあって悪気無く心が傷つけられ、その事によってまた悪気無く相手側の心を傷つけ返してしまうことがある、というのを知った。
なんだか無意味にも思える対立で、やりきれなさも感じた。
またそんな自分もじつは。中立のような書き方をしてしまっていると思うけれど、自分だってあっちへフラフラこっちへフラフラ。事態を大きくすることに手を貸してしまったと思う。それも含めた上でのやりきれなさなのだった。

比べるような話じゃない!とも思うんだけれど・・
傷つくのが心か身体かというのと規模の大きさが違うだけで、傷つけ合う事のむなしさと、平和を願いながらも翻弄される弱さみたいなものが、戦争の中にもあるのかもしれない?
(私は身体を傷つけられた事がないからそう感じてしまうだけなのかもしれない。そうだとしたらとても申し訳ない。ささいな対立を戦争なんかと重ねて考えてしまうなんて、どうかしてるのかもしれない。)

心の傷は目に見えなくて、知らず知らずのうちに、、というのもあって気をつけようとしても難しいかもしれない。けれどそういう点では、身体を傷つけることを止めるほうが簡単なんじゃないか?と書きながら思った。
心の場合はまた、前向きな何かにつながれば、傷に見えてただけという風になる事もあると思うけど、そういうのは身体の傷にはなさそうだ。

かもしれない、ばかり書いてしまった。でも私は、傷つけるのも傷つけられるのも、誰かが傷つけられてるのを見るのも嫌なのだ。
子どもと一緒にいると、その純粋さ?なんだろう?とても心惹かれるし、学ばされるし、幸せだと思わせてもらえる。子どもが幸せな世界は大人も幸せといえるかもしれない。その環境を作るのは大人。分からないけど、改めて考えさせられた一日になりました。

<追記>
そういえば、この前日にちょうど「戦争に加担してる企業の商品を買うのをやめましょう」って時々聞くけど、どういうことかな?って調べて色々知って考えたのでこういう事を書いたんだと思う。
あと、自分の状態でこんなにも感じ方が変わるんだなぁということが興味深かった。色々な角度から情報を得ると、スパッと言い切るとか、どっちかが完全な正義だとか言うことが難しくなるんだなぁとしみじみ思ったりもした。そしてそこをタイミングを見計らってあえてスパッと言い切るとかいうのも、上手いこと状況を変える戦略になったりするんだなぁとか。

これを読んだ人は、いったい何書いてんだ?って風に思ったりするだろう。
私がまとめ下手なのもあるけど、世の中ってきっとこんな風に分かりやすくないものなんだ!分かりやすく白黒ついてるように見えるものは、演出だったり、視野が狭かったりするのかもしれない。自分が分かりにくくてもあまり心配しないで、前を向いたまま行っちゃおうと思いました。(だからこの記事もこれでいい、という事にする)