memo

日々のものづくり&気になることいろいろメモ

2014年もよろしくお願いいたします。

賀正2014

旧年中にこのブログを読んでくださったみなさま、展覧会に来てくださったり、作品をみてくださったみなさま、どうもありがとうございました。
今年も自分なりに前に進んで行こうと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

また穏やかな一年を過ごせますように。色々な出会いがありますように。

2013年の思考まとめ

誰が読むねんパート2!というか、そういえばいつも誰が読むねんな事ばかり書いてましたね・・。結構自分にとって大事なことに気づいた気がする1年だったので書き留めていたメモを元にまとめてみました。全てに(※自分の場合)と注釈がつくような感じです。

  1. 絵が好きだからとか、認められたいとかは、動機にするのは難しい。
  2. 誰にも期待されなくても、下手でも、それは絵を描かない、つくらない理由にはならない。モヤモヤときちんと向き合う事が本気になることと言えるのでは?
  3. 有名な画家のように戦争反対などの強い想いや意志は持てていないが、自分には感動(ワクワクしたり心が動かされたり)したことと、それを人に伝えたいという想いに描かされる状態がきっといい。感動すること、その気持ちを伝えることで、自分の存在も大きく感じられる(自己肯定)。
  4. 色々なものの在り方について、「そこにただ存在するということは、浅い目で見ると当たり前で真新しく見えない。でもあらゆるものも目に見えない独自のルールを持ってそこに存在している。そこがどれだけ整理されているかが、どれだけ洗練されて見えるかに関係してくるのではないか」と思った。
    (堀文子さんの、実物そのものではない整理された線・記号一歩手前のあたたかく心地よい線や配置について考えているうちに気づいた。)
  5. 子供に独自のイメージの世界をつくれるよう、環境を考えて刺激の強い物をできるだけ与えないようにしている事について、自分が人の作ったイメージに侵されているからそうしようと思うのではないか、自分自身が一番恐れていることなのではないかと気づいた。けれど自分の親を見ていると、親自身が子供の頃にした苦労を自分の子にさせたくないと思うのは普通なのかもしれないとも思う。
  6. ファンタジー、想像の世界は特に子供には必要だ。
    現実は生々しく、直視するには負担が大きすぎる。ファンタジーのフィルタを通してワクワク楽しみながら向き合うことを仮経験することで、自立の準備ができるのかもしれない。疲れた大人もファンタジーの力を借りれば現実と向き合えるのでは?
  7. 人が作ったイメージの土台にのっかって考えを書いた文は後から読もうとしても、読み飛ばしたくなる事が多い。
    あとは、時事のことなどは生鮮品のようなもの?とか、自分で考えた事は後で読んでもよい刺激になっていて、積み上がるものなのかも?と思った。
  8. 人との対話が上手くない自分が、つまらない人間なのではないかと苦しくなることがあるが、
    つまらない=分かりにくいというだけのこと、悪い事ではない。
    時間をかけて味にする。身なり、振る舞いは地味でも、在り方・行動を追求し、味のある人間になりたい。と思った。
  9. 疲れやすいのは、一つ一つを意識し過ぎているからなのかもしれない。出来るだけ流すように、一つ一つを軽くしていきたい。

2013年の出来事まとめ

誰が読むねんって感じですが、こんな事がありました。

  1. Melody展に参加し、立体作品に挑戦した。もう一歩成長しなければならないとも感じた。
  2. 出来る範囲で仕事もさせていただけた。(チラシ、イラスト、はがき)まだまだ上手くなりたいと思った。
  3. 五感をつかう気持ちよさや実体験の感動などにより、心を動かすことが能動的な動機につながることを実感した 。
  4. 息子が野外保育園に入園し、書ききれないくらいの色々な刺激を受け充実した日々を送った。
  5. 朝の光の気持ちのよさを改めて知った(期間限定)
  6. 保存食づくりに目覚めた
    →味噌 梅干し 梅ジュース 梅酒 らっきょう 野沢菜 大根の漬物
  7. 卵、乳製品不使用のお菓子づくりにはまった
  8. 家族で山歩きできた
    →白馬栂池・八方 美ヶ原 駒ヶ岳千畳敷カール 上高地 黒姫

<気になった作家>

レオ・レオニ
グランマ・モーゼス
フレデリック・バック
掘 文子

上手くいかない状況をいつも誰かに助けてもらえたり、そもそもが厄年のせいだったりしたら楽だけれど、それだと成長の機会を逃してしまうのだろうか。

涙で癒せずやり場もなく、自分で自分をボコボコにするしかない思い。
けれどただ失敗しても、クヨクヨせず進めばいいだけだったりするのだろうか。とにかく何かを責める事はせず、感謝の心を失わず、集中していれば、自分自身で模索し続けることができるのだろうか。
その場にいる人を傷つける弱さもある。その場には自分も含まれている。一人きりでいても自分と向き合う場がある。その場には色々な自分がいる。そういう「場」を意識できないと向き合いづらいのだろうか。

場に向ける事で自然に助けあえる思い。
人に向ける事で互いに癒され場も良くする思いがある。
どちらの思いも自己犠牲や奉仕とは離れていないと誰も幸せにできない。
何か上手くいかないときは、思いの注ぎ先を間違えているのかも?集中力が下がっているのかも?
寝て起きると考えが変わっているかも?

よい場を作れるようになりたい。

描きすぎないこと

フレデリック・バックのアニメーション『木を植えた男』をみました。
登場する人物や背景が部分的にしか描かれていなかったりするのですが、動く事によってその足りない部分が想像できて、しかも重心がしっかり描かれているからかリアルな映像までもがちらついて、わぁ♪となりました。
木漏れ日の森の中を歩くシーンはほぼ光の部分だけが描かれていて、でも「あーそうそうそういう風にキラキラしてて気持ちがいいんだよねー」って、自分の記憶の欠片を呼び起こされる感覚・・。それがとても心地よく、心が動かされたように思います。

そういう、光や色のあざやかさや風や空間を感じさせる表現って憧れ!
でも実はその効果って受けて側の記憶の欠片を呼び起こすものなのかな?紙に描かれてるわけだから、本物のように見せるのは難しい。記憶をどれだけ引っ張り出せるかみたいな所なのでしょうか。

そう考えると、全てを描いてしまうとそれが難しくなるのかもしれないとも思えてきました。想像をかき立てる表現の力。素晴らしいなぁ。
そして別のアニメーションではその表現によって非現実の世界が表現されたシーンとの境目がとても自然・・という言い方で上手く言えてるか分からないけれど、自然にファンタジーの世界に引き込まれて、そこでまた わぁ♪となれたのでした。

ストーリーも素敵でしたが、光や色のあざやかさや風や空間を感じさせられることで素敵さが引き立っていました。まるで自分もその場にいるかのような感覚に近い状態になれるのです。

じつは、このアニメーションの話は随分前に夫から聞いた事があったのですが、多分家事に追われていたり疲れていたりして良さを分かる事ができていませんでした。自分で何かを調べて知る時も、分かったようなつもりになっても実際の理解度は良くて2割で、実際にそれにまつわる体験をした時に初めて8割分かるだけなのではないかという気がしていたのですが、人から聞くともっと分かる事ができないようですね・・、我ながら悲しい・・もったいない・・くやしい。

きちんと興味が湧いたきっかけは、ジブリの『かぐや姫』をみて、いいなぁと思って監督のインタビューを見てたらフレデリック・バックの名前が出たからです。かぐや姫でも全てが描かれていない所に惹かれて、監督もその点で影響を受けたと話されていたので気になりました。
そういえば夫が絶賛していたし、展覧会の図録を持ってたはず〜と思って見てみたけど、静止した絵だと最初はよく分かりませんでした。DVDをみせてもらって初めて心が動いたのです。

これは動きがつかないと出せない良さなのでしょうか?
自作の絵本が3本ありますが、作る度に次回作は背景も描けるようにならなきゃ・・・と思ってすすめてきたのに、最近見返すとなんだかくまっくるの背景のすっきり感が心地よく感じました。今思うと、ストーリーを活かすものが描けていないんだなーと思えます。
想像をかき立てるような背景を目指したいです。

見えてる部分だけ見て分かったつもりになるなんてつまんないですね。見えない部分を見る力ってどんな風に育てればいいんでしょうか。今日のフレデリック・バックのアニメーションを楽しむのに役立ったのは、普段自然物をみて感動した記憶。
かぐや姫の時は、人々の心情が興味深かったから、色々な経験をしてきたことが役だったのかな。それとも、何かによってたくさん心を動かすことがいいのかな?気になります。