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日々のものづくり&気になること。

 

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上手くいかない状況をいつも誰かに助けてもらえたり、そもそもが厄年のせいだったりしたら楽だけれど、それだと成長の機会を逃してしまうのだろうか。

涙で癒せずやり場もなく、自分で自分をボコボコにするしかない思い。
けれどただ失敗しても、クヨクヨせず進めばいいだけだったりするのだろうか。とにかく何かを責める事はせず、感謝の心を失わず、集中していれば、自分自身で模索し続けることができるのだろうか。
その場にいる人を傷つける弱さもある。その場には自分も含まれている。一人きりでいても自分と向き合う場がある。その場には色々な自分がいる。そういう「場」を意識できないと向き合いづらいのだろうか。

場に向ける事で自然に助けあえる思い。
人に向ける事で互いに癒され場も良くする思いがある。
どちらの思いも自己犠牲や奉仕とは離れていないと誰も幸せにできない。
何か上手くいかないときは、思いの注ぎ先を間違えているのかも?集中力が下がっているのかも?
寝て起きると考えが変わっているかも?

よい場を作れるようになりたい。

描きすぎないこと

フレデリック・バックのアニメーション『木を植えた男』をみました。
登場する人物や背景が部分的にしか描かれていなかったりするのですが、動く事によってその足りない部分が想像できて、しかも重心がしっかり描かれているからかリアルな映像までもがちらついて、わぁ♪となりました。
木漏れ日の森の中を歩くシーンはほぼ光の部分だけが描かれていて、でも「あーそうそうそういう風にキラキラしてて気持ちがいいんだよねー」って、自分の記憶の欠片を呼び起こされる感覚・・。それがとても心地よく、心が動かされたように思います。

そういう、光や色のあざやかさや風や空間を感じさせる表現って憧れ!
でも実はその効果って受けて側の記憶の欠片を呼び起こすものなのかな?紙に描かれてるわけだから、本物のように見せるのは難しい。記憶をどれだけ引っ張り出せるかみたいな所なのでしょうか。

そう考えると、全てを描いてしまうとそれが難しくなるのかもしれないとも思えてきました。想像をかき立てる表現の力。素晴らしいなぁ。
そして別のアニメーションではその表現によって非現実の世界が表現されたシーンとの境目がとても自然・・という言い方で上手く言えてるか分からないけれど、自然にファンタジーの世界に引き込まれて、そこでまた わぁ♪となれたのでした。

ストーリーも素敵でしたが、光や色のあざやかさや風や空間を感じさせられることで素敵さが引き立っていました。まるで自分もその場にいるかのような感覚に近い状態になれるのです。

じつは、このアニメーションの話は随分前に夫から聞いた事があったのですが、多分家事に追われていたり疲れていたりして良さを分かる事ができていませんでした。自分で何かを調べて知る時も、分かったようなつもりになっても実際の理解度は良くて2割で、実際にそれにまつわる体験をした時に初めて8割分かるだけなのではないかという気がしていたのですが、人から聞くともっと分かる事ができないようですね・・、我ながら悲しい・・もったいない・・くやしい。

きちんと興味が湧いたきっかけは、ジブリの『かぐや姫』をみて、いいなぁと思って監督のインタビューを見てたらフレデリック・バックの名前が出たからです。かぐや姫でも全てが描かれていない所に惹かれて、監督もその点で影響を受けたと話されていたので気になりました。
そういえば夫が絶賛していたし、展覧会の図録を持ってたはず〜と思って見てみたけど、静止した絵だと最初はよく分かりませんでした。DVDをみせてもらって初めて心が動いたのです。

これは動きがつかないと出せない良さなのでしょうか?
自作の絵本が3本ありますが、作る度に次回作は背景も描けるようにならなきゃ・・・と思ってすすめてきたのに、最近見返すとなんだかくまっくるの背景のすっきり感が心地よく感じました。今思うと、ストーリーを活かすものが描けていないんだなーと思えます。
想像をかき立てるような背景を目指したいです。

見えてる部分だけ見て分かったつもりになるなんてつまんないですね。見えない部分を見る力ってどんな風に育てればいいんでしょうか。今日のフレデリック・バックのアニメーションを楽しむのに役立ったのは、普段自然物をみて感動した記憶。
かぐや姫の時は、人々の心情が興味深かったから、色々な経験をしてきたことが役だったのかな。それとも、何かによってたくさん心を動かすことがいいのかな?気になります。

のびのび。解放。

諏訪湖畔にあるハーモ美術館の『アンリ・ルソー、グランマ・モーゼスと素朴派の画家達』に行ってきました。素朴派の絵を観るのはおそらく初めて。でも今の日常で良く目にしている自然の風景が描かれていて、現代のイラストレーションにもありそうな雰囲気でとても身近に感じ、初めて観た気がしなくて楽しくなりました。

なかでも、グランマ・モーゼスさんは75歳で本格的に絵筆を取り、評価され、たしか90歳ごろに技術的な全盛期を迎えた(うろおぼえ)とのことで、その頃の絵をみると雪の風景の白に赤い服を着た人が小さく入っていたり、今の私にとってイカした絵を描かれててぐっと惹かれました。

私も今もたもたしてるけど、諦めずにがんばろ!のんびりのろのろでもいいじゃないか〜!と励まされました。
ほんとに今、描きたいけど描けない。子育て中で時間がないというのもあるけれど、きっとあってもきちんと向き合うことが出来なくて現実逃避してしまう。少し前までは人の目が気になりすぎていて、最近ようやく内側からわいてくるものを感じ始めて少し希望が湧いてきました。

そして昨日も書いたけど、子どもがのびのび描いてるのをみると本当に羨ましく・・。大切なのは「のびのびやること」なのかもなーと思えてきました。私は何に邪魔されてのびのびやれなくなったのか?子どものこの“のびのび感”もいつか何かに邪魔されてしまうのか?気になっているところです。

こんな風に、あまり誰も読んで無さそうなここで、未熟さをさらけ出しつつ・・のびのび書いてみようと思います。

今日はサンリツ服部美術館にも行きました。ここでは『色彩の解放 シャガールからクリストまで』が印象に残っています。
写真が普及し始めると絵画はだんだん抽象的な方向へ描かれるようになって、色が自由に用いられて感情が表現されたりしたのだそう。この展示がコンパクトにまとめられていたおかげで私にはとても分かりやすく面白く感じました。
私が観ていて気持ちよく感じたのは、抽象的で要素少なめで質感アリのもの。少し写実的な物に憧れ始めてもいたのですが・・私もきっと解放されたいんだーと思いました 笑。

写真が普及する前の人々は、自分に向き合って感情表現をする習慣も無かったりしたのでしょうか。カラフルなものを観た時に私は心が躍るような気持ちになるけれど、やっぱり色彩と感情の関係は密接なのだなぁ。と気になります。
色彩が解放される前と後で、人間の思考の仕方が変わっているとしたら、いつかその良い所悪い所を比べて改めて自分の思考の仕方を見直したたらまた面白いのかも知れませんねー。

開放すること

子どもが絵を描いてる様子を見ていると、一瞬の迷いも無く手を動かしてどんどん展開させていてとても羨ましい気持ちになる。

同時に、芸術家はこういう子どもの頃の感覚を取り戻すことなのかな?とか、いや、再び子どもの頃のように感覚を解放すると芸術家になれるのかもしれないとか、真面目に考えてしまったりする。

こんな風にのびのびやれれば気持ちがいいのだろうなぁ。

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