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日々のものづくり&気になること。

 

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描きすぎないこと

フレデリック・バックのアニメーション『木を植えた男』をみました。
登場する人物や背景が部分的にしか描かれていなかったりするのですが、動く事によってその足りない部分が想像できて、しかも重心がしっかり描かれているからかリアルな映像までもがちらついて、わぁ♪となりました。
木漏れ日の森の中を歩くシーンはほぼ光の部分だけが描かれていて、でも「あーそうそうそういう風にキラキラしてて気持ちがいいんだよねー」って、自分の記憶の欠片を呼び起こされる感覚・・。それがとても心地よく、心が動かされたように思います。

そういう、光や色のあざやかさや風や空間を感じさせる表現って憧れ!
でも実はその効果って受けて側の記憶の欠片を呼び起こすものなのかな?紙に描かれてるわけだから、本物のように見せるのは難しい。記憶をどれだけ引っ張り出せるかみたいな所なのでしょうか。

そう考えると、全てを描いてしまうとそれが難しくなるのかもしれないとも思えてきました。想像をかき立てる表現の力。素晴らしいなぁ。
そして別のアニメーションではその表現によって非現実の世界が表現されたシーンとの境目がとても自然・・という言い方で上手く言えてるか分からないけれど、自然にファンタジーの世界に引き込まれて、そこでまた わぁ♪となれたのでした。

ストーリーも素敵でしたが、光や色のあざやかさや風や空間を感じさせられることで素敵さが引き立っていました。まるで自分もその場にいるかのような感覚に近い状態になれるのです。

じつは、このアニメーションの話は随分前に夫から聞いた事があったのですが、多分家事に追われていたり疲れていたりして良さを分かる事ができていませんでした。自分で何かを調べて知る時も、分かったようなつもりになっても実際の理解度は良くて2割で、実際にそれにまつわる体験をした時に初めて8割分かるだけなのではないかという気がしていたのですが、人から聞くともっと分かる事ができないようですね・・、我ながら悲しい・・もったいない・・くやしい。

きちんと興味が湧いたきっかけは、ジブリの『かぐや姫』をみて、いいなぁと思って監督のインタビューを見てたらフレデリック・バックの名前が出たからです。かぐや姫でも全てが描かれていない所に惹かれて、監督もその点で影響を受けたと話されていたので気になりました。
そういえば夫が絶賛していたし、展覧会の図録を持ってたはず〜と思って見てみたけど、静止した絵だと最初はよく分かりませんでした。DVDをみせてもらって初めて心が動いたのです。

これは動きがつかないと出せない良さなのでしょうか?
自作の絵本が3本ありますが、作る度に次回作は背景も描けるようにならなきゃ・・・と思ってすすめてきたのに、最近見返すとなんだかくまっくるの背景のすっきり感が心地よく感じました。今思うと、ストーリーを活かすものが描けていないんだなーと思えます。
想像をかき立てるような背景を目指したいです。

見えてる部分だけ見て分かったつもりになるなんてつまんないですね。見えない部分を見る力ってどんな風に育てればいいんでしょうか。今日のフレデリック・バックのアニメーションを楽しむのに役立ったのは、普段自然物をみて感動した記憶。
かぐや姫の時は、人々の心情が興味深かったから、色々な経験をしてきたことが役だったのかな。それとも、何かによってたくさん心を動かすことがいいのかな?気になります。

のびのび。解放。

諏訪湖畔にあるハーモ美術館の『アンリ・ルソー、グランマ・モーゼスと素朴派の画家達』に行ってきました。素朴派の絵を観るのはおそらく初めて。でも今の日常で良く目にしている自然の風景が描かれていて、現代のイラストレーションにもありそうな雰囲気でとても身近に感じ、初めて観た気がしなくて楽しくなりました。

なかでも、グランマ・モーゼスさんは75歳で本格的に絵筆を取り、評価され、たしか90歳ごろに技術的な全盛期を迎えた(うろおぼえ)とのことで、その頃の絵をみると雪の風景の白に赤い服を着た人が小さく入っていたり、今の私にとってイカした絵を描かれててぐっと惹かれました。

私も今もたもたしてるけど、諦めずにがんばろ!のんびりのろのろでもいいじゃないか〜!と励まされました。
ほんとに今、描きたいけど描けない。子育て中で時間がないというのもあるけれど、きっとあってもきちんと向き合うことが出来なくて現実逃避してしまう。少し前までは人の目が気になりすぎていて、最近ようやく内側からわいてくるものを感じ始めて少し希望が湧いてきました。

そして昨日も書いたけど、子どもがのびのび描いてるのをみると本当に羨ましく・・。大切なのは「のびのびやること」なのかもなーと思えてきました。私は何に邪魔されてのびのびやれなくなったのか?子どものこの“のびのび感”もいつか何かに邪魔されてしまうのか?気になっているところです。

こんな風に、あまり誰も読んで無さそうなここで、未熟さをさらけ出しつつ・・のびのび書いてみようと思います。

今日はサンリツ服部美術館にも行きました。ここでは『色彩の解放 シャガールからクリストまで』が印象に残っています。
写真が普及し始めると絵画はだんだん抽象的な方向へ描かれるようになって、色が自由に用いられて感情が表現されたりしたのだそう。この展示がコンパクトにまとめられていたおかげで私にはとても分かりやすく面白く感じました。
私が観ていて気持ちよく感じたのは、抽象的で要素少なめで質感アリのもの。少し写実的な物に憧れ始めてもいたのですが・・私もきっと解放されたいんだーと思いました 笑。

写真が普及する前の人々は、自分に向き合って感情表現をする習慣も無かったりしたのでしょうか。カラフルなものを観た時に私は心が躍るような気持ちになるけれど、やっぱり色彩と感情の関係は密接なのだなぁ。と気になります。
色彩が解放される前と後で、人間の思考の仕方が変わっているとしたら、いつかその良い所悪い所を比べて改めて自分の思考の仕方を見直したたらまた面白いのかも知れませんねー。

開放すること

子どもが絵を描いてる様子を見ていると、一瞬の迷いも無く手を動かしてどんどん展開させていてとても羨ましい気持ちになる。

同時に、芸術家はこういう子どもの頃の感覚を取り戻すことなのかな?とか、いや、再び子どもの頃のように感覚を解放すると芸術家になれるのかもしれないとか、真面目に考えてしまったりする。

こんな風にのびのびやれれば気持ちがいいのだろうなぁ。

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日常で五感を使うこと

湿気があると草や土の香りは強くなるのかな
この辺は湧き水が美味しくて、ごくごく飲んだり料理に使うためにタンクに汲んでくるのが習慣になっています。

この水を飲んだ時に私は、ただ美味しいってだけじゃなくて水道水に無い甘いというか旨いような味がして美味しい・・と思います。料理して味見する時に味の素因数分解みたいなこと、やりませんか?塩分とあれとこれ(言葉にしにくい・・)とのバランスをみるあの感覚・・湧き水の美味しい部分はあれの、基本ではないその他の部分。深い部分の味で、喜びみたいな「うわぁ〜♪」な感覚をももたらせてくれたりします。(予想以上に言葉にするのが難しい・・!)

この間の、息子が通う園の畑当番の日。とても暑い日で湿気もありました。
牧草地の中にある畑へ向かって歩きながら、「空気が美味しいなぁ。甘いような旨いような・・これが美味しい空気ってやつだなぁ。」と思って、たくさんたくさん深呼吸して幸せになりました。湿気があると草や土の香りが強くなるのでしょうか(田んぼの横でも同じ香りがしました)。
そして、あっ!この美味しさのあの部分、湧き水のと同じかもっ?!と思えました。

自然の中の空気は美味しいっていうのはこれまでも思ってはいましたが、今思うと「みんなそう言ってるし排気ガスとかもないしきっと美味しいんだ〜」くらいの感覚だったのかもしれません。自分で初めて頭ではない部分でその美味しさを実感できたみたいです。この場合は舌と鼻かー。

それから、この夏は車の冷房が苦手になって窓をあけて外の空気を入れながら運転する日々なのですが、住んでる場所がどちらかというと山側で家の方から降りて平地の真ん中へ近づいてくると必ず、外の空気も涼しくなくなって仕方なく冷房を入れることになり、それでまた山側に近づいたら窓を開けて・・という事になります。
窓を開けていると、田んぼや畑や山の中の道では土や草や花や実の香りがして癒されます。牧場の近くでは牛や豚の香り。車が多い道ではやっぱり排気ガスとアスファルトと乾いたホコリっぽい香り。
そんな風に、空気の温度や香りで、あっちからこっちへ空間を移動してるんだなぁと感じられるのが最近なんだか嬉しく思えてきました。この場合は肌と鼻かー。

そうすると五感ではあと目と耳が残っていますが、目はやっぱり色。新緑の黄緑とかを見ると「うわぁ〜♪」です。
耳も、鼻と同じように、虫や鳥の鳴き声などを聴いて、そこにいるなぁと感じながら、自分も移動してるなぁとか思ったりします。

もう何年も前に落ち着いたことなのですが心身を病んだことがあって、一時期喜びを感じることができなくなりました。あのせつなさを思い出すと、今の毎日がとても幸せに思えます。人って五感を使うことが大切なんだなぁと思います。
五感を使ってさきほど書いたように色んなものを立体的?にとらえる事で、自分が今ここにいることを実感できているんじゃないかとふと思えました。
「自分がどの部分を快いと思うか」という自分だけの感覚の位置を確認することができるからかな?
やっぱり上手く表現できませんが・・・。最近すぐ行きたくなる山の上にもこの快さがある気がします。

そういう意味ではテレビやパソコンは平面的なので、やっぱり違うんだと思います。

そして逆の話も・・・
添加物たくさんのものを食べた時、「うわぁ〜♪」な部分は全く無く満足感が乏しい・・。基本の部分の味はしっかりあるけど、しっかりはっきりしすぎて違和感があります。それでなんかずっと口の中に残り続けます・・口の中にずっと居座られます。。

この間、とてもとても久しぶりに電気屋さんへ行きました。
すると、とてもとても居心地が悪く・・・気分が悪くなってしまいました。なんでなんだろう??

あと、コンビニが好きじゃなくなってきました。どこでもほぼ同じでその場所にいる感覚になりにくいからです。そしてこのへんはコンビニ跡に建物をほぼそのままで改装して別の飲食店になったりする事が多く、すぐコンビニ跡だなぁって分かってしまってその土地らしさが薄くなるから、嫌だなぁと。
頭では添加物の事も考えると・・っていうのもあるけど、自然の中で感じるあの快さを感じる場所とは反対の存在なので、五感的にも嫌だなぁと感じてしまいます。そうか、電気屋さんの時の嫌な感覚もそれなのかもしれません。テレビやパソコンの中には、あの快さを感じられません。

あの快さ、の感覚、これはなんなんだろう?
快さを知ったから、それとは違うものを快くないと感じるようになりました。
不思議。でもとても大切な感覚。日々の小さな幸せです。