春のささやかな

新しい葉

朝ふと見上げると、林の木々から新しい葉っぱたち。やわらかでツヤツヤできめ細やかで、これはきっと今しか見られないキレイな生え方・光り方なのだろうなぁ・・と色々観察していると心がウキウキしました。最近は万全とはいえない体調で過ごす日々なのですが、こういう晴れて空や植物がキレイに見える日だと少し元気を取り戻します。私自身もまるで太陽の光にあたって光合成とか発電とかでもしているかのようです〜

色とりどりの花もみかけるようになったり、野草を食べたりして、私の五感にも春がやってきたなぁという感じがしてきました。

うーん、色々感動したものを写真に撮ってみようとしましたが、魅せられるような腕がなくて残念・・

 オオイヌノフグリ
オオイヌノフグリという、小さな小さな青い花を咲かせる雑草があるのですが、それが一面に咲いた畑がとてもキレイ。
小さな花もたくさん集まれば胸をきゅんとさせる力を持つのだなぁ。雪景色のモノトーンからの変化だから際立つのかな。ささやかなものに心を動かされる事がうれしいです。

事実と妄想

この間書いた記事「いつもお世話になっております」で、私は思考があちこちに飛んで対話の中でもとんちんかんな事を言ってしまっているのではないか、と不安いっぱいになっていたんだけれど、それから色々見聞きし、少し前向きになることが出来てきました。

友人がなぐさめの言葉をかけてくれたのもありがたかったのですが、今、世を騒がせているナンタラ細胞のOボカタさんを批判する人・信じる人の意見が書かれたブログ記事をいくつか読んで観察していると、色んな想像の仕方があって「フムフムこの人は事実以上のその部分でそんな風に想像を膨らませるんだ・・あれ?みんなも結構私と一緒で思考があちこちに飛んでいっちゃってる??」と思うようになりました。想像って、それぞれ自分の身近な物事を材料にしてするしかないのでしょうか。

また、仕事などでアイデア出しを何人かでしていると、そんな思考があちこちに飛びがちな性質があると意外な案が浮かびやすいのかもとも思えました(うまくいけば・・)。そして脱線しすぎたらまた戻って来られればいいのかも?脱線しちゃいけないと思うと頭が固くなってしまうけれど、許されるのであれば気づいた時に戻せばいいと思えるととても気が楽になれます。

そしてたまたまある教室で聞いた話。「瞑想をする時、必ず頭をからっぽにしないといけない訳ではなくて、頭の中に色々浮かんでくるのはOK。良くないのはそれを追う事。物事が頭の中に浮かんでくるのは事実、それを放っておけずにどんどん追ってしまうのは妄想。妄想がNG。」とのこと。事実と妄想(想像)を出来る限り区別して色んなことを観察していきたいと思いました。

でも、私のようなイメージを仕事にするような立場だとどうなんでしょう?
実際に何らかの形に出力すれば事実として扱えるようになるのでしょうか。そこから先がうまく想像できないのは、あまり手を動かせていないから・・?気になります。

考えること

植物写真家・埴沙萌さんの本や映像などをみていると、植物の美しさと、そのしくみにとても感心する。子孫を残すために、独自のやり方で種を自分で飛ばしたりするものがいたり、それを風や虫たちに託すものがいたり。よく考えてそのしくみを編み出したんだなぁ、という感じがして愛おしくもなってくる。

植物はただ、そこにいるだけのように思えるのに。
気温や光や、何かしらの条件がそろうと芽を出し、すくすく育って、やがて種を土へ落とし、枯れていくのを繰り返す、その決まった流れの中に、よくできたしくみがつまっている。考えていないようで、よく観察すると考えてそうしているようにみえてくる。

それも「考える」ということにあてはまるのなら、私のいつもやっているつもりの「考える」ってなんなのだろう?別にしなくてもいいことをしているのかな?
脳みそのない植物が、あんなに精巧に出来ていて、美しくもあるんだから。頭の中をぐるぐるさせずに行動するだけでよかったりするのかもしれない。と思った。

ふと思い出した。
森に詳しい方のお話会での質疑応答で「なんで間伐作業をする必要があるのでしょうか?」というのに対しこんな風にこたえていた。
「自然に放っておいても間伐を行うのと同じようないい状況になるんだけれど、それには100年くらいかかってしまう。だから人間が手を加えるんです。」

人間には脳みそがあって、効率よく目の前の状況を良い方向に変えていけるんだな、「こういう状況が好ましい・そのためにはこうするのがいい」という知恵を道具のように使っているのかもしれないなぁと思った。植物のしくみにも知恵のようなものを感じるけれど、進化して生き残ってきた形がそうみえるだけなのかもしれない。

植物が何代にもわたって進化して生き残るけれど、人間は1人でも、植物より多くの知恵も持てるんだ。何のための知恵なのか、知恵をどう使うのがいいのかとか、自分なりに考えてみたくなった。生きるため、楽しむため、よい社会にするため・・・?
あれ?考える話が、知恵の話になってしまった。

埴沙萌さんのホームページ

背守り 子どもの魔よけ 展

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「背守り」って知ってますか?私は初めて知りました。
昭和の初め頃までは子どもの無事成長を願い、着物の背中の部分に魔除けの刺繍を施していたそうです。
普段から私は背中(首の後ろ)に刺繍が施された洋服に惹かれがちで、それが子どものお守りになっていたという事実でさらに引力を増強され、子どもと一緒に行ってきました。
『着物を彩る祈りのかたち、子を慈しむ母の手仕事』というコピーも素敵です。

実物をみていると、込められた想いがあたたかくふわふわっと伝わってくるようで心地よい時間を過ごすことができました。身につけるものに想いを込めるっていいなぁ。ブックレットを購入しましたが、やはり実物がいいですね。自分でも刺繍したくなって、色んな紋を紙に描き写して練習してみたりもして、ワクワク・・。

ただの好みなのか、母だからなのか、ワクワクします。もしかして前世で身近だったのかも・・と思えるくらい。これまでは和の物に惹かれる事が少なかったので嬉しくなりました。

大阪の展示が終了した後は、東京にも行くようですよ。

【背守り 子どもの魔よけ 展】
場所:グランフロント大阪タワーA 12階 (大阪市北区)
日時:2014年3月7日(金)~5月20日(火)/10:00~17:00/入場無料
休館日:水曜日
“子どもの魔よけとして着物の背中に縫取られた「背守(せまも)り」、端切れをもらい集めて綴った「百徳(ひゃくとく)着物」。本展では、昭和の初めころまで子どもの無事成長を願い作られていた祈りの造形の様々を通して、かつての衣文化の豊かさを伝えます。”
http://www1.lixil.co.jp/gallery/exhibition/detail/d_002767.html

いつもお世話になっています

最近誰かと話していると、自分はすぐとんちんかんな方へ思考が流れていき、話の筋からずれた事を言ってしまったりしてるなーという事に気づく。周囲にはとっくに知られたことなのかもしれないけれど、最近気づいてしまった。大人になると、変な所を丁寧に指摘してくれる人なんていなくなるのだ。みんな大人だから、これまでそっと流してくれていたに違いない。

話しながら自分でも内心、あれっ?とも思うけどすぐに修正するまではできないでいる。でもそれを怖がって話さなくなるよりはマシで少しは何かにつながってはいる・・(と、自分では思う)。
周囲の人はそれでもよく自分と話してくれているものだな・・と感謝の気持ちすら沸く。きっと気を悪くして離れてしまう人もいる(いた)のだろう、、これをもし直せるのなら是非直したいものだ。でも会話を重ねることによってしか治せない気がする。(SNSではきっと治せない。独り言が多くなっているし、文字で対話してても文章を考えて書けるから。この記事を書くにあたっても「とんちんかん」の使い方が合ってるか意味を調べてたりとかするし)めげずに臨んでいくしかない・・?!

こんな自分と接してくださっているみなさま、いつもお世話になっています。ありがとう。

感じ方が変わった

久しぶりにちひろ美術館でゆっくりできた。
何度か見ていたはずの作品や、知っていたはずのちひろさんの戦争への想いが、今までと違ったカタチですっと胸に入ってきた。

今まではきっと「戦争は嫌だよね、人がたくさん死ぬから。けれど私は実際に体験してないからちひろさんのように熱い想いは持てないな。」みたいな感覚でみていた。「私は何になら熱くなれるんだろう?ないな・・」とも思っていた。
けれど今日は「きっと政治的に対立しているだけで、戦いたくて戦ってる人は実はとても少なかったりするのかもしれない、子どもたちは感受性が強い無垢な存在だから本当はもっとのびのびと過ごせる環境で育てられなければならないんだ」と、自分なりにちひろさんに共感した感じになった。

最近、身近な集まりでささいな、ちょっとした対立があって、私はその中で右往左往したという出来事があった。自分の考えを確認したつもりでも色んな言葉の勢いに流されてよく分からなくなる事が何度もあった。でも、もっとお互いによく知り合えてさえいれば、平和に状況が移り変わっていくだけだったのかもしれないとは感じていた。
何かのすれ違いがあって悪気無く心が傷つけられ、その事によってまた悪気無く相手側の心を傷つけ返してしまうことがある、というのを知った。
なんだか無意味にも思える対立で、やりきれなさも感じた。
またそんな自分もじつは。中立のような書き方をしてしまっていると思うけれど、自分だってあっちへフラフラこっちへフラフラ。事態を大きくすることに手を貸してしまったと思う。それも含めた上でのやりきれなさなのだった。

比べるような話じゃない!とも思うんだけれど・・
傷つくのが心か身体かというのと規模の大きさが違うだけで、傷つけ合う事のむなしさと、平和を願いながらも翻弄される弱さみたいなものが、戦争の中にもあるのかもしれない?
(私は身体を傷つけられた事がないからそう感じてしまうだけなのかもしれない。そうだとしたらとても申し訳ない。ささいな対立を戦争なんかと重ねて考えてしまうなんて、どうかしてるのかもしれない。)

心の傷は目に見えなくて、知らず知らずのうちに、、というのもあって気をつけようとしても難しいかもしれない。けれどそういう点では、身体を傷つけることを止めるほうが簡単なんじゃないか?と書きながら思った。
心の場合はまた、前向きな何かにつながれば、傷に見えてただけという風になる事もあると思うけど、そういうのは身体の傷にはなさそうだ。

かもしれない、ばかり書いてしまった。でも私は、傷つけるのも傷つけられるのも、誰かが傷つけられてるのを見るのも嫌なのだ。
子どもと一緒にいると、その純粋さ?なんだろう?とても心惹かれるし、学ばされるし、幸せだと思わせてもらえる。子どもが幸せな世界は大人も幸せといえるかもしれない。その環境を作るのは大人。分からないけど、改めて考えさせられた一日になりました。

<追記>
そういえば、この前日にちょうど「戦争に加担してる企業の商品を買うのをやめましょう」って時々聞くけど、どういうことかな?って調べて色々知って考えたのでこういう事を書いたんだと思う。
あと、自分の状態でこんなにも感じ方が変わるんだなぁということが興味深かった。色々な角度から情報を得ると、スパッと言い切るとか、どっちかが完全な正義だとか言うことが難しくなるんだなぁとしみじみ思ったりもした。そしてそこをタイミングを見計らってあえてスパッと言い切るとかいうのも、上手いこと状況を変える戦略になったりするんだなぁとか。

これを読んだ人は、いったい何書いてんだ?って風に思ったりするだろう。
私がまとめ下手なのもあるけど、世の中ってきっとこんな風に分かりやすくないものなんだ!分かりやすく白黒ついてるように見えるものは、演出だったり、視野が狭かったりするのかもしれない。自分が分かりにくくてもあまり心配しないで、前を向いたまま行っちゃおうと思いました。(だからこの記事もこれでいい、という事にする)

考えずに感じろ?

この間久しぶりに玄米おかゆパンを買って食べたら「う・・うっっまーーーい!」ってなった。
最近は何かが美味しくても「あぁ、(わりと)うまいね」くらいにとどまる感じで特に不満もなかったけど、このパンを食べると身体の中心(胃袋?)からぐわぁあっというか、うおぉおっと喜びのようなものが湧いてきた。

そういえば昨年度はこの感覚を初めて知り、何度も出会ってた。きっとその時にいた周囲の方々に食べさせてもらっていたんだ。

私はこういう“素材の美味しさ”に、うおぉおっとなるようだ。この うおぉおっ は、なんだか恋してときめくような感覚に似ていて、数日経つけど時々ふと思い出す。そしてその後、最近食べ慣れてたはずの似たような食べ物でも、少しうぉおっとなった。センサーみたいなものが再び復活したような・・。

この感覚は大切にしたい。以前だと「やっぱり砂糖・乳製品・動物性不使用がいいんだ」とか思っただろうけど、今はなんかそういう風に頭の中でかみしめるより自分にとってうっまーい!と感じた事実だけでいいやって感じ。
でもそういえば、冷えた身体に温かい飲み物を飲んだ時も、うっまーーい!だなぁ。冷えた身体に温泉も似たような喜びがあるな。

五感で得た喜びは身体に刻まれて残るということなのかもしれない。
ひょっとしてその経験があると、人にも与える事ができたりするのかな。どうだろう。

子どもらしさって

息子を見てると、自分の中の“子ども”に対するイメージと違うなと思う事が多いけど、これは小さい頃の自分と比べて違うと思ってるだけなのかな。

漬物・梅干しが好きだとか、おにぎりは味付けナシでいいと言いおかわりを自分で握って食べるとか、テレビのニュース中にドライヤー使ったら聞こえない!って怒ったり、災害ドキュメント中に仕上げ歯磨きしようと寝転ばせたら見えない!って泣くくらい興味持ってるとか、お手伝いするとか、
種ありのポンカンやブリ焼きの骨を文句言わずに食べてるとか、いつのまにかミカンの皮を剥いて父ちゃん母ちゃんへ配る係になってたりとか。

そういうの、小さい頃の自分には無かった。
カレーとかドリアとかばっかりリクエストして食べてた。テレビはアニメばっかり。父がニュースにチャンネルを変えたら文句を言って席を外した。種有り骨有りのものは面倒で食べたくなかった。お手伝いせずに、仕事から帰宅したての母に、おなかすいた早くごはん食べたいとか言ってた。世の中のことに興味はなかった。
だから、息子を見てると「変な子だなー」と思う。(笑)付き&興味深い感じで。

でも、そんな息子も外では元気で素直で子どもらしくていいねーって言ってもらえたりしてる。子どもらしさってなんだろうな?
子どもらしいものをあまり与えなくても、子どもはちゃんと子どもらしいのだな。
逆に私の方が、小さい頃の世界(生活習慣?)から抜け出すのに時間がかかっていて、今でも子どもっぽくて自信が持てない部分がある気がする。そのおかげで学ぶこともあるけど、なんだか息子がうらやましいのでありました。

北風と太陽

なんだかふと思う事があって『北風と太陽』を検索してみたら、よく知られている旅人の上着を脱がせる1回勝負で太陽が勝つだけのお話と、その前に帽子を吹き飛ばして北風が勝つ話がくっついた2回勝負のお話もあるそうだ。

太陽が勝つだけのお話だと教訓は、
“冷たく厳しい態度で人を動かそうとしても、かえって人は頑なになるが、暖かく優しい言葉を掛けたり、態度を示すことによって初めて人は自分から行動してくれる”
(前後を少し略しました)になって、

両者が勝ったり負けたりするお話だと、
“何事にも適切な手段が必要である”
と、なるとのこと。

両方納得。でも寛容な態度の方が意外と人を動かせるというほうが目からウロコだな、、というか実体験もあって、北風が頑張るほどに旅人が上着をぎゅっと押さえてしまう感じなんて上手い例えだなぁと思った。
でも、最初に北風が頑張って着込ませたから太陽が有利になることもありそう・・。どっちが完璧とかはないのかもしれない。

あぁでも、私は太陽でいたいなーと思ったのでした。そして北風とも仲良くしたい。晴れの国、だけどたまーに北風呼んで色々吹き飛して初心を思い出すとか。

Wikipedia 北風と太陽

覚悟が足りない

今日、息子と歩いて帰ろうとしたら1人でどんどん走って行ってしまって、もう既に少し走っても追いつかなくて(鈍足な母のため)「あぶない!呼んでも声が届かない所まで行っちゃうなんてだめ!しばらく歩いて帰るのやめよう!」と叱った。息子はとてもショックを受けていた。

でも、本当にあぶないと思ったのなら、死にものぐるいで自分で走って追いかけてとっつかまえれば良かったのかもしれない。私は息子のせいにして叱ってしまった。人のせいにしてキレてしまった。

いつも寝る前にお休みギューってやるところを、息子は今日はじめて「しばらく、おやすみギューしない」と言って寝た。ああ、お返しされたな。
そうか・・仕方ないな・・と思って私は黙って受け入れた。
少しして、息子が目がかゆいから洗うと言って起きてきた(これは良くあること)。その帰り、黙ってギューして「おやすみ」と言って寝室へ・・。
とても申し訳ない気持ちになった。

園のホームページを作って、お母さん方が、大変だったんじゃない・・?ってよく心配してくださるんだけど、それも、やるからには楽しんでやる覚悟が足りなかったのかもしれない。きっとなんだか辛そうに見えたりしたのだ。確かに入ったばっかりで誰に相談していいか分からず困って悩んで疲れてしまっていたし。

最近、園の保護者の中で、係の負担を軽くしようという空気になっていて思った。やらなくてもいいって言われても、私はホームページの作業をする。今やってるパンフ作りだって。そうか、私はやりたくてやっているのだ。
でも、なんだかんだ疲れたりで体調崩しがち。そんなの見てる方は気持ちよくないな・・別に無理しなくてもいいのにってなるのは無理ないな。申し訳ない。

やりたくてやってるのに、覚悟が足りないんだと思った。
口だけ大丈夫って言ってて、口だけあぶないだめだと言ってて、行動しきれていない。そして疲れて見えるなんてなんだか痛々しいな・・痛いな。

同じインフルにかかって、動いてた旦那と動けなかった私。
もしかして、そんな覚悟のようなものが普段足りてたら、私も動けたんじゃないか?感謝しつつ、自分のそういう所が浮き彫りになった感じがした。

オリンピックの選手たちを見ていても、この人たちと自分との違いは集中力の高さもそうだけど、覚悟できてるかできてないかだと思った。
やりたい事へ対しての覚悟が足りない。やりたいって口ばっかり。覚悟が足りなくて集中できない。そして不調にひっぱられてしまう。

人付き合いでも、この人と仲良くなりたい!って覚悟が足りてない・・

これについてよく考えて行こうと思う。