シンプル化
我が子なのに時々、どんな風に育てたらこうなるんだろ?私もこんな風に育ちたかったなー。と思ったりする。
もし、○○教育法みたいなのを試してたら、そのおかげだと思っちゃってたのかな。それか 自分のやり方のおかげだと思っちゃってたかもしれない。
そうじゃなくても、じゃあもともと素質があるのか(親ばか)?環境が育ててくれたのか?これからも息子を信じて任せようか、なんて風にもいちいち考えてしまうけど、じつは自分たちの日々の中では、単に「息子のこういう所好きだなー」って思ってたらよかった事だったりして?
難しく考えすぎて嫌だわー。
疲れやすい質だけど、一番疲れさせてるのは自分なのかも。シンプルな世界で生きたいなー!
みらいのはじまり
すぐテレビに気を取られる息子に注意した私。
テレビをみて楽しいのは、テレビの中にしかない楽しさだ。楽しませようとして作られているからずっと見てるとそれ以外のものがつまらなく感じる。そしてまたテレビがみたくなる。
息子が本当にやりたい事・楽しい事は、息子にしか分からない。発見も息子が自分でしかできない。母ちゃんが教えたくても教えられない。だからそれに気づくためにテレビに気を取られすぎず、ほかの遊びもしてほしい。
などなどを言った後・・・
母ちゃんも、絵本をつくりたいのに作れてないでしょ。もう大人になってしまったから、家のこととか、息子のこととか、仕事とかしなくちゃいけなくて息子より時間がなくなってしまってる。息子は小学校に行き始めると勉強しなくちゃいけないから今のうち。
ここで息子、「じゃあ母ちゃんはテレビで絵本のつくりかたを見ればいいじゃん」
私「作り方をみてるだけで、作れるとおもう?」
息子「はっ・・(そうか)」
でも自分で言いながら、自爆してる音がぼかんぼかん聞こえた。
私もテレビはあまり自分ではつけないけど、すぐネットの情報をみてしまってる。息子は今は野外保育園で思い切り遊ばせてもらってるんだから、どちらかというと私の方が遊ぶ時間を作ったほうがいいんじゃないのか。
そこで親も何か自分のことをしてる姿をみせようと思ったら、私には今の作りかけの絵本しか思いつかなかった。私こどもに難しい要求をしていたんだ・・完全に自爆だ。とどめをさしちゃっている。
で、まだ絵が登場人物のスケッチくらいでとまってるけど、お話だけは出来ているので息子に読んでみることにした。
絵がないので、息子は途中で何かものをさわったりし始めて、やっぱりつまんないかなーと心配になったけど、けっこう長いお話を最後まで聞いてくれて、しかもあとで「2人がなかなおりできたのは、あの時の○○が××におちたせいだと思うなー」とか言ってくれたりした。
私も息子に言う何回かに一回は、自分のことをやらないとなー。
関係ないけれど息子、そのあと「みらいのはじまり」がなんとかかんとか言っていた。
なんだろ?そのフレーズだけ妙に印象にのこった。それって今この時のことでもあるなーって。何かに気づいたときとか。タイトルにさせてもらった。
二番目の悪者・・・は、ワタシ?!
小さい書房さん、気になっていてやっと松本の本屋さんで手にとって読めました。 2冊あった中で、私はこの本にぐっときて購入! タイトルの二番目の悪者って、誰のことかなーって気になりつつ読んでいたのですが、あっこのライオン以外の動物たち、ワタシだ。ワタシだなー。と思いました。 以前、ちょっとした対立の中で右往左往した私もこのブログに次のように書いていました。(2014.23.21「感じ方が変わった」より) “自分の考えを確認したつもりでも色んな言葉の勢いに流されてよく分からなくなる事が何度もあった。” “またそんな自分もじつは。中立のような書き方をしてしまっていると思うけれど、自分だってあっちへフラフラこっちへフラフラ。事態を大きくすることに手を貸してしまったと思う。” 日々SNSで出会う色んな情報に対しての自分の態度ももっと慎重に考えなくてはなーと思っていた事も、この本を読みながら頭にちらつきました。 いつか子どもにも話したい、大切なこと。でもこの絵本があれば、子どもにも伝えやすくなる・・ありがたい! 作者さんは、どんな出来事を思い浮かべながらこのお話を作られたのだろう?とっても気になります。 小さい書房 ホームページ “「ひとりで読んでも、子どもと読んでも」。そういう本作りを目指しています。”
描かされるもの
夫婦ゲンカのあとに息子が描いてみせてくれた絵。
直前に年賀状を書いてて「おともだちに何か描いたら?」って言ったら、黒一色のクシャっとした集中できてない絵、、、うーん仕方ないか〜。って感じだった。
そしてその直後にケンカしちゃって、元気づけようとしてくれた息子は写真みたいなカラフルな太陽みたいなパワーの感じさせられるものを描いた。
さらに、折り紙にひつじを描いて「年賀状だよ〜」ってくれたりもした。
親だからか、絵に気持ちが入ってるかどうかって分かってしまう。ケンカ後のほうがいい絵。。(もらって嬉しいけど切ない・・!)
描きたいと思って描くかどうかでこんなに違うんだなぁと思ったのでした。
内から湧き出る衝動で描いた絵・・素敵だな〜(こんな場合は切ないんだけれど・・)、私も色んな事に対して湧き出させたらいいのになと思います。
2015年もよろしくお願いいたします。
【2015年にやりたいこと】
1)4作目の絵本を仕上げる
去年も書きましたが物語づくりが大半だったので、今年は絵の試し描きなどから入り、楽しめる・納得のいくものが出来たらなーと思います。間に合うならばコンペに応募したいです。引き続き応募に間に合わせるために急いで作業をすませてしまうことは避けたいです。
2)単体でもなりたつ作品づくりをする
1をしながら、試し描きなども作品として成り立つようなものにしていければいいなぁと思っています。
3)自然の中に好きな法則をみつける
同じ木の葉っぱでも色が違っている、まつぼっくりのお尻などのフィボナッチ数列的な並び方、・・・などを写真に撮ったりして、いつかの作品作りのために記録する。
4)外に出て体を動かす
去年は2、3回山歩きしたので、今年はもっと出かけられればいいな。忙しくても普段から庭に出たり散歩したりするようにして五感でリフレッシュする。
5)穏やかに日々を楽しむ
4の出かけることも含まれるけれど、改めて季節を感じるって大切。旬のものを食べたり、窓をあけて風を入れるだけでも土や草の香りを感じられるし、工夫していきたい。あとは人と会う時間をつくる。息子が年長で園生活が最後になってくるので、しっかり楽しみたい。 * あとは、絵本制作以外の仕事も無理なくやっていければいいなーということと、健康診断を受けようと思うことと、もっと息抜きが上手くなれればなぁということかな? でも、これでも私にとっては数が多いのかもしれません。こういうのも、もっとさらっと書けたらいいのに 笑。様子をみつつうまくバランスをとってやっていければいいなぁと思います。
2014年を振り返る
すでに年があけてしまいましたが、振り返ってから目標を立てるほうがやっぱりいいですよね!
よかったこと、よくなかったことを、制作作業を中心にまとめてみました。
【よかったこと】
1)サイト制作に最初の段階から関わらせてもらったこと。
→時間をかけて話し合いながら、デザイン&イラストのほかにもサイト名・コーナー名のアイデアを出させてもらったりしていました。前から気になっていた書き文字や手描き風イラストに挑戦もしやすくしてくれて、結果的に自分の仕事の幅が広がったと思う。本当にありがたかった!
2)自分の好みではない作家さんの作品の良さを、前より感じることができて純粋に感動できたこと。
→好みではないというのは、改めて考えると見た目が好みではないということだと思う。作品の目に見えない部分のよさを感じられるようになったのかなぁと思えてうれしかった。上手く言えないけれど、音楽で言うとカバーやリミックスをするときに、変えても作品の良さが損なわれない部分があるような。それを実感したら技術的なすごさと見た目(好みを分けるテイスト部分?)を分けて見られる気がした。
3)4作めの絵本制作が、少しずつだけどすすんでいること。
→仕上げるところまではいけなかったけれど、これまでよりも物語をしっかり詰められている、ような気がしている・・。絵はこれからだけど、そのおかげで新しい手法を取り入れたものにできる!
4)生活において、シンプルがよいということを再実感したこと。
→自分の特徴を見つめ直すと、多くを望まず、身の回りのものごとをシンプルにしておくことが自分に適してるはず!
【よくなかったこと】
1)病気をしてしまった!
→でも、長い目で見るとよかったことになるのかもしれません。大腸ポリープは切除をして検査結果は良性だったし、十二指腸潰瘍や萎縮性胃炎も原因のピロリ菌を除菌しているし。とはいえポリープはガンになりやすいタイプと言われたり、胃炎も老化現象とも言われるみたいのものだったりで、少し生き方について考える感じになりました(シンプルがいいと改めて思ったのもこの流れ)。とにかく、検査してみてよかったなぁと思いました。
2)家にいることが多かった。
→思い浮かべると家の中にずっといる、、という記憶が濃くって・・・。もちろん仕事をしていた充実感もあるけれど、気を取られすぎてしまっていました。もっと散歩したり庭に出たりできたはずなのです。
3)息子の園での保護者活動にあまり参加できなかった。
→仕事の予定とぶつかったり、体調を崩したりして・・シクシク。
【反省】
息抜きが上手くなれればきっともっと楽しい日々になる。もっと外に出て体を使ったり、人と会って話したりしようと思いました。
【仕事・作品】
チラシ・ポスター。公開されたウェブサイト3件(イラスト・デザイン)。クリスマスカード・年賀状。その他・・羊毛ダーラナホース。
可愛いってなんなのだろう
イルフ童画館の「チェブラーシカ絵本原画展」へ。
この展覧会で、見慣れてるチェブラーシカの姿は原作をもとに色々に表現されたものの中の一つにすぎないという事が分かってなぜか安心した自分に気づく。出会った頃はその愛らしさに惹かれてたはずなのに、今は年のせいか??少し距離ができていて、どちらかというと物語の方が気になっていた。自分も変わったなあと思えて変な感覚になった。でも可愛い姿と距離を置くことで、ほかの作家さんと並列な感じで前よりも作品を深く楽しめたような気がする。
その体験を踏まえて惹かれるところ・距離を置きたいところについて人と話していると、自分の絵に対するモヤモヤに向き合う材料を得られたような気もした。私は、ビジュアル的に強く打ち出さないでキャラクターの魅力を感じさせるやり方をしたいのかもしれない。
個人的にそういうものに芸術性を感じ、目指したいのかも・・
チェブラーシカの可愛さは、私が興味を持つのにとっかかりを良くしてくれたけれど、時間と共に飽きてしまった。そしてしばらくある意味私が作品に深く触れる機会の邪魔をしていたと言える。「可愛い」ってなんなのだろう?可愛いの中に好みか好みじゃないかがあるだけだと言ってしまうとつまらないけど、そこをあえてなんでかなぁと考える事が楽しさにつながる気がする。
絵本の原画に添えられてた文章(物語)がいいなと思ったけど、家に帰ってからみたアニメーションの同じシーンのセリフも新旧それぞれ少しずつ違ってて、でもそれも翻訳の仕方の違いかもしれなかったりで、色んな視点がある事を実感できた。
自分が一生懸命作ったものも、結局色んな価値感を持った目で見られるのだから、自分がこれだ!と思ったり楽しんで作れたなら良くて、さらにそれが誰かに伝わったならとても幸せなことなんだな。
強いビジュアル的魅力を持ったものを少し怖がっている部分があるんだけど、それはもったいないのかもしれない。全部を楽しむのは難しいだろうけれど、出来るだけ良い物に触れられればなぁと思った。
食べ物のこと
食べ物のことを色々考えてきて、少し落ち着いてきたので今の感覚を書いてみる事にした。
うちは甘いものとか添加物とかを避けるのを、無理せずにやってる感じだけど、でもある程度遠ざけると私自身の感覚もいつの間にかそれらから遠ざかってて、もう前のようには戻れない感じになってきている。その感覚が少なからずいいものを選ぼうとする力になっている。疲れた時くらい本当はもっと楽をしたいけど、楽の仕方も選んだものじゃないとストレスになって最初はつらかった。生協に加入してからは随分と楽になっているように思う。
子どもについては、お友達といる時は・・とか、出かけた時は・・とか、たまーには自由に甘い物とか好きな物を食べさせてあげようって思うけど、意外とベーッて出しちゃったり、残しちゃったり、そこでも意外と彼自身でシンプルな物を選んだりする。
全部ではないけど、あれっ?子どもはみんなこういうのが好きって訳じゃないんだ?ってなる。
そういえば、私自身の感覚も子どもに育ててもらったところがあるんだった。このおかずのどこが嫌で食べ残そうとするのか?の感覚を探って、あぁこれかな、分かる気がするって所を調理する時に気をつけたりしたら、辛いのと苦いのと固いのとかとほかの一部の食感以外はほぼ食べてくれてる。
最初は色々知ったりして頭で考えて避けてたけど、だんだんそういう事で頭をいっぱいにし続けることが日常生活に支障をきたしてくるきがして?!個人的な感覚でやるようになってきた。でも、それでもあまり変わらなくてなぁんだ・・これでいいんだなぁという感じ。
個人的な感覚では、砂糖や添加物がたくさん使われてるものは、素材の味が遠ざかる。素材の味がして美味しい物は子どもも好んで食べてくれる。
砂糖は口の中にのこって、これが再石灰化を妨げるのかも?という感覚がある。食べる頻度に気をつけてたら、子どもは最近ハブラシに歯磨き粉をつけないでも問題ない感じになってる。大人は歯周病予防でなかなか歯磨き粉を使わないわけにはいかないけど、減らしたりはできている。
うちは牛乳とお肉もできるだけ避けている。牛乳は、牛が人と同じで子どもを産んだら分泌できるようになるもので、常に絞るためには常に出産してるって事なんだろうか?とか、母体の食べ物や薬やストレスの影響が大きいという実感もあって、牛がどのように生活しているのかが気になる。お肉もそうだけど、大量生産で安売りされているようなものはあまり信用できない気がして、そういう意味で信頼できるものを選びたいという感じ。でも選ぶとやっぱりとても美味しいんだけどその分高価であることとの葛藤が出てくる。でも自分の環境からいくと「たまに食べるのが現実的」という判断をしている。
子どもはなぜか生まれつき牛乳が好きではなかった。私は小さい頃大大大好きでぐびぐび飲んでたんだけど、今は乳糖不耐症。それで今は豆乳生活で落ち着いている。
日本の食環境が、私個人の感覚に寄り添っていってくれれば幸せだなぁと思うけど、最初はそう願ったんだけど、色々知るうちに私みたいに願う人々はいるはいるけどごく少数のようだった。色んな価値感もあるし、生きるために食べ物を選べないという家庭もきっとたくさんあるんだ。それは仕方が無い。
比較的近い家庭が集まった園に子どもを通わせているけれど、それでもやっぱりちょっとしたこだわり度の違い?に気を遣ったり遣われたり・・。そういう摩擦?に耐えてこだわりをつらぬくにはとてもパワーがいると実感している。
それでやっぱり私としては自分ちの自分ができる範囲の中で無理せず選ぶことでいいかなーという判断をしている。ハレとケの「ケ」をどうするか?で考えればいいかなって。
TEDで、アメリカの食について語るプレゼンを見たんだけど「ん・・?普通のことを言ってる・・?」と思ってしまった。いつも感心するばかりのプレゼンが多いけどこれには、あれっ?って。これでアメリカと日本の食については環境がまるで違うんだという事を知った。
ジェイミー・オリバー 「子ども達に食の教育を」 (TED Prize授賞講演)
そのあとでアメリカの食の問題を映画にした監督のインタビューを読んで、さらに日本との環境の違いに驚いた。アメリカの田舎は日本の田舎と違って家庭菜園とかもしなくて、流通もなくて野菜を食べずに加工食品や炭水化物ばかりで、肥満なのに栄養失調の子どもが多いのだそうだ。
町山智浩 映画『FED UP』が描くアメリカの飢餓・肥満問題を語る
これと比較するのも良くないのかもしれないけど、日本はとても恵まれているのを実感した。
自炊しようとするとすぐに野菜を食べられて、添加物も避けられる。調味料も、だし・味噌・醤油・みりん・塩・酢・菜種油とかごま油とかの身近なものを慣れさえすればすぐに美味しく安全に食べられるし。少し気をつけるだけで甘い物を食べ過ぎなくてすむ。
そんな感じで、パワーのある人はもっとこだわればいいけど、そんなにパワーのない人はそれくらい気をつけるだけで十分なのかもと最近肩の力が抜けてきた。
それで、低年齢になればなるほど感受性が強くて、色んな影響を受けやすいから、子どもには大人が気をつけてあげたほうがいい、という事なんだと思う。(うちの子は特に影響を受けやすいタイプのようだから、普通よりも刺激になるものを気にしていて丁度良いのでは?という感じ。)情報も、そういう色んな背景があるのを頭においておいて取り入れるのがいいよね!あとは好みで・・?
こういうグレーゾーン・・・・どうでしょうか。私は立ち位置が見つかった気がしてとりあえず満足だったりしますー。
お金をはさまないこと?
昨日今日へこんでしまっていたところ、息子と2人で湧き水をくんで野草摘んでご飯作るのも手伝ってもらって食べたらとても癒された感覚があって気になった。
野草だけのご飯という訳ではなかったんだけど、自分で採りに行って調理して食べるっていう行為はやっぱりイイのかも。息子も何か感じたのか「ねぇかあちゃん!水道のお水ってお金で買ってるんでしょ??」って聞いてきてた。
お金を使うってストレスになってたりするのかな?それともお金と引き換えに手に入れてプラマイゼロみたいな感覚に無意識になっている?
前にネットの記事で、太陽光発電の設備を簡単に作って自宅での仕事で使う電力を賄っている方がいるのを知って、いいなあと思ったことがあった。私もネットしたり仕事でもパソコン作業でメールでやりとりしたりで電気を使うから、そのエネルギーを自分で賄えたら素敵だなぁって。その上災害で停電した時とか、車に積んでの避難も可能だ・・と備えにもなると想像もして尚更興味が湧いた。(行動にうつせてはいないけど・・)
湧き水や野草についてもそう。それから息子がご飯とお味噌汁を作れると、親に何かあっても頼りにさせてもらえるし、本人の自立に役立つし。そういえば思い出したけど、今日息子は味噌を溶き入れながら「ご飯とお味噌汁が作れたらぼくも一人暮らしできちゃうんでしょー?」とも言っていたなぁ(父ちゃんも、父ちゃんにそう言われたみたい)。逞しく育っていただきたいものだなぁ。
今日癒されたのはそういう事からなのかなぁ。癒しというか安心というか、気になる感覚。
全部自分で!は難しいけどせっかくこういう所に住んでいるんだし、そうやって少しでも無理なく(楽しく?)自分で賄える事を、自分なりに見つけていけたら・・どんな感覚になるんだろう?