これ”で”いい、がたくさんある生活

家族でインフルエンザで倒れた後すぐ、大雪に見舞われてしまった。
でも生活のベースをささやかなものにしていたおかげで、この非常時にも比較的混乱せずにすごせた。

まず私が倒れ3日間何もできなくなったけど、普段の食事が、ごはん・味噌汁・漬物・納豆などがベースになっていたので、すぐに旦那が代わりをしてくれた。洗濯も毎日してくれたので溜まらなかった。
インフルエンザ&大雪で全く外出が出来ない数日間だったが、
味噌が無くなったけど自家製の味噌樽が床下にあって補充できた。
漬物が無くなったけど物置に漬物樽でつけてあってすぐに持って来れた。
食器洗い用石けん水が無くなったけど、粉石けんから作る習慣がありすぐにストックを出してこられた。
柑橘類を頻繁に買わないでいいようにポンカンを箱買いしてあったのも病人と子どものおやつに良かった。

あれ買わなきゃ・・になる機会を減らした生活のおかげで、焦らずにすみ、病気と雪以外家の中はいつも通りだった。
特に食に関しての非常時にもゆるぎにくく、すぐに取り戻しやすい「いつもの生活」がある安心感がとても良かった。手間がかからず美味しくて安心安全でもある食事のベース。それを旦那も理解してくれていて、私が倒れてもすぐに代わりになってもらえた。

漬物煮干しごはん
お漬け物数種と煮干しの組み合わせはとてもおいしい!
売ってるお漬け物は薬品などで殺菌処理が必要だったりするようで、手作りと同じものは外で買えないのです

でも、この安定感の中には旦那もインフルエンザを発症したにもかかわらず、白いお薬で症状をおさえ、雪かきや家事をしてくれたからというのがある。全く動けなかった私は漢方(しかもさらにききめのゆるいの)を飲んでいた。熱が下がっても食事が上手く取れず旦那の滋養強壮ドリンクを分けて貰い久々にのんでやっと持ち直す始末・・。今後は体力の乏しい私も自然の力ばかりへ意識を向けすぎず、無理せず科学の力も借りて行かなければいけないと思った。乗り切れたのは旦那のおかげ・・。

食で上手くいったから、食以外にもこの安定感を作っていきたいと思えた。
例えば洋服は、アイロンがけナシで余裕が無くてもさっと着られるコーディネイトが2種あり、つらくても考えなくても好きな服が着られた。同じ服装が続いてしまうけど好きな感じだから、ごはんと味噌汁が続いても良くなったみたいに、あまり気にしないで済んだ。
食だって、いつもいつもずっと漬物と味噌汁だけな訳ではなく、食べたいものを足せばいいし、時々カレーにしたりパスタにしたり楽しめれば十分。つかれたなーって時に最低限になるだけです。

身の回りの色々もそうなっていけば、普段からもっと片付けやすくなったり、在庫の管理もしやすくなりそう。しかも思考しなくても自分的な質を保てるので、今までそれについての試行錯誤に費やしていた時間を、好きなことへの意識へまわすことができ、日々を充実させられるのではないかとワクワクまでしてくる。
雑誌の素敵な人や、あこがれの人の、あの生活を目指してゴールするために、私は生きてるんじゃないって再認識した。

原研哉さんの無印良品の「で」の考え方*1 みたいな、不満足やあきらめを含んだものではなく、自信をもってこれでいい、と言えるような「自分たちにとってこれ”で”いい」なシンプルさを持った日々の生活のベースをたくさん作ることができたら・・そして生き甲斐を感じるのはまたそれとは別のものでありたい、と思った。

息子ももう少し大きくなればお味噌汁とご飯くらい作れるようになるだろうし、みんなで助け合えるようになるだろう。それは子どもにとっても自信になるんじゃないかな。
そして、この習慣はきっと息子が独り立ちするのにも役立つんじゃないだろうか。仲間を助けたり充実した健やかな日々をおくるためにいいんじゃないだろうか。
でも、まだ私にもできてないんだから言えないな。充実させなくては。見本を見せられるように頑張ろう。

大雪
デッキが埋まってしまった

——

やってて良かった。
1)ごはん・味噌汁・漬物と、+ちょっとした何か、な生活。
2)色々と漬物をつけてあった。
3)しょっちゅう買い物に行かなくてもよい生活。
4)柑橘類の箱買い。

——
*1
“ここで言う「で」は、不満足やあきらめを含んだものではなく、自信をもってこれでいい、と言えるようなものである。”原研哉
http://www.musabi.ac.jp/d-info/y04/keieiron/4-1.html

雪のかたち

雪の結晶

うっすら雪が積もった朝、車を運転しながら地面がやたらキラキラしているなーと思って、気になって車から降りた時に見てみたら雪の結晶が降り積もっていました。たまたま大きいから気づいたけど、いつもの雪も小さくて気づかないけどよーく見るとこうなのかも!と思ったら胸が躍りました。

そういえば前にも見たなぁ・・と写真を探してみたら去年の今頃でした。この時はただ水分が凍てついて結晶化したのかなーとも思ったのですが、今年のを見ると降ってきてるのが分かります。ロマンチック〜♪
 雪の結晶2

雪を踏む音

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子どもと今日の集合場所まで歩いてみた時のこと。
あまり時間に余裕が無くて、サクサク歩いたけど4才は頑張ってついてきていた。(成長したなぁ)

急いでただ歩いていただけなんだけど、雪を踏みしめる音が心地良かった。帰りもその音を聞きながら歩いた。

言葉でどう表現するのがしっくりくるかな?サッククク・・サッククク・・とかかな?とか考えながら歩いた。

今日は山がくっきり見えるな。大きいな。私は大きな山に囲まれているな、包まれてるな。
空が青いな。飛んで行く飛行機が白く透明がかってみえる。自分が描きそうにない角度で飛んでる。
鳥の声が聞こえるな。どこかなあのへんかなすずめかな、当たった〜とか。

ひたすら頭に浮かべてみたら、とても癒されました〜

子育てしていると・・

うちの子はまだ4才でまだまだ先の話だけれど、先輩お母さんの話を聞いたり色々な記事を読んでいるうちに、9才ごろにあるらしい子供の変化が気になってきました。
この頃に親を客観視し出してある種の親離れがあるようで、シュタイナー教育に基づいた講座を開いている先生は「9才の危機」と表現していました。

↓このブログもシュタイナー系。
「9才の危機」森へ行こう(心とからだと子育てと)
「9才の危機(その2)」森へ行こう(心とからだと子育てと)
ここを読むと幼い頃に自然や大人との関わりなど、現実社会の中に楽しさを知れている事がこの時期に対しての準備になるとのことです。
自分はどうだったかなぁと考えてしまいます・・。
でも、何の人の手も加わってないものとか、現実的な日々の作業とか人との関わりに楽しさ(日々に喜び)を感じる力が身に付けられていたらとてもいいだろうなぁ、身につけたいなぁと今現在強く思ってはいるのは確か。

そして、このプレゼンも思い出しました。
ベンジャミン・ザンダー「音楽と情熱」TED
これを見てとても感動しのたのですがそれは今はおいておいて、、

ここではクラシック音楽の素晴らしさをプレゼンされています。
子供のピアノの上達の仕方を7才のリズムの取り方は〜という感じで、11才まで説明があって、そこで上手く楽しさが見つけられないと、ピアノを続けられないと言っています。

7才はリズムを一音一音とっていて、11才は楽譜全部でひとつのリズムで捉えて、曲に込められた思いを理解して強弱がつけられるようになるようです。
ですが、うまく理解できないでリズムを細かく単調にとっているだけでは、疲れやすく飽きてしまって続かないとのことで、とても印象に残りました。私自身も習字とかそろばんとかを早いうちから習っていたのに行かなくなってしまったのは、これくらいの時期だった気がします・・

9才ごろにきちんと何かに向き合って、楽しさを見出す経験をして熱中出来るかどうかが大事そうだなぁと思いました。こういう変化があると知っていれば、子供への接し方を比較的考えやすくなりそうですよね。

私はとっくに9才の何倍も生きてしまっていますが、リズムのとり方=意識の仕方と考えて、もう少し疲れない生き方をしたいものだと考えたりしていました 笑。社会活動が怖かったり自信が無かったり、何かに熱中して自分でやり続けていることは無い気がします・・。そして本当にやりたいはずの作品づくりからは逃避しがち。自分の問題としてもこの件に興味がわきました。
子育てしていると、こんな風に自分を育て直しているような気持ちにもなります。

と言いつつ、これまで緊張と緩和とか、ハレとケについて知った時に、同じようにヒントを得られたと思って考えてみてもなかなか上手くやれていなかったりします・・きっと自分でもがくしかないのでしょうね(助けて〜)

2014年のイメージ

今年はこういう日々にしたいです。

  1. 4作目の絵本をつくる
    おはなし部分が大分できてきたので、絵の方をこの1年間で描くことを目標にしながら、これまでと違うやり方に挑戦する
  2. 仕事の幅を広げる
    たくさんの時間を使える訳ではないけれど、これまでやってきた事に捕らわれずに(手仕事してみたりして)つながりを見つける
  3. よい作品をみて好きな作家さんを増やす
    (絵本を読むことも含む)知識不足を解消する
  4. 感動をブログを書いたり作品にしたり、直接誰かに話したりする
    五感を使うことを意識し、頭だけで考える時間を減らして行動し、心が動いたことを人と共有する
  5. 穏やかに日々を楽しむ
    保存食づくり、畑作業、整理整頓、対話して学ぶ、読書、山歩き、瞑想orヨーガで心身を整える、家族の思い出づくり、ニコニコする機会を増やす

2013年の思考まとめ

誰が読むねんパート2!というか、そういえばいつも誰が読むねんな事ばかり書いてましたね・・。結構自分にとって大事なことに気づいた気がする1年だったので書き留めていたメモを元にまとめてみました。全てに(※自分の場合)と注釈がつくような感じです。

  1. 絵が好きだからとか、認められたいとかは、動機にするのは難しい。
  2. 誰にも期待されなくても、下手でも、それは絵を描かない、つくらない理由にはならない。モヤモヤときちんと向き合う事が本気になることと言えるのでは?
  3. 有名な画家のように戦争反対などの強い想いや意志は持てていないが、自分には感動(ワクワクしたり心が動かされたり)したことと、それを人に伝えたいという想いに描かされる状態がきっといい。感動すること、その気持ちを伝えることで、自分の存在も大きく感じられる(自己肯定)。
  4. 色々なものの在り方について、「そこにただ存在するということは、浅い目で見ると当たり前で真新しく見えない。でもあらゆるものも目に見えない独自のルールを持ってそこに存在している。そこがどれだけ整理されているかが、どれだけ洗練されて見えるかに関係してくるのではないか」と思った。
    (堀文子さんの、実物そのものではない整理された線・記号一歩手前のあたたかく心地よい線や配置について考えているうちに気づいた。)
  5. 子供に独自のイメージの世界をつくれるよう、環境を考えて刺激の強い物をできるだけ与えないようにしている事について、自分が人の作ったイメージに侵されているからそうしようと思うのではないか、自分自身が一番恐れていることなのではないかと気づいた。けれど自分の親を見ていると、親自身が子供の頃にした苦労を自分の子にさせたくないと思うのは普通なのかもしれないとも思う。
  6. ファンタジー、想像の世界は特に子供には必要だ。
    現実は生々しく、直視するには負担が大きすぎる。ファンタジーのフィルタを通してワクワク楽しみながら向き合うことを仮経験することで、自立の準備ができるのかもしれない。疲れた大人もファンタジーの力を借りれば現実と向き合えるのでは?
  7. 人が作ったイメージの土台にのっかって考えを書いた文は後から読もうとしても、読み飛ばしたくなる事が多い。
    あとは、時事のことなどは生鮮品のようなもの?とか、自分で考えた事は後で読んでもよい刺激になっていて、積み上がるものなのかも?と思った。
  8. 人との対話が上手くない自分が、つまらない人間なのではないかと苦しくなることがあるが、
    つまらない=分かりにくいというだけのこと、悪い事ではない。
    時間をかけて味にする。身なり、振る舞いは地味でも、在り方・行動を追求し、味のある人間になりたい。と思った。
  9. 疲れやすいのは、一つ一つを意識し過ぎているからなのかもしれない。出来るだけ流すように、一つ一つを軽くしていきたい。

2013年の出来事まとめ

誰が読むねんって感じですが、こんな事がありました。

  1. Melody展に参加し、立体作品に挑戦した。もう一歩成長しなければならないとも感じた。
  2. 出来る範囲で仕事もさせていただけた。(チラシ、イラスト、はがき)まだまだ上手くなりたいと思った。
  3. 五感をつかう気持ちよさや実体験の感動などにより、心を動かすことが能動的な動機につながることを実感した 。
  4. 息子が野外保育園に入園し、書ききれないくらいの色々な刺激を受け充実した日々を送った。
  5. 朝の光の気持ちのよさを改めて知った(期間限定)
  6. 保存食づくりに目覚めた
    →味噌 梅干し 梅ジュース 梅酒 らっきょう 野沢菜 大根の漬物
  7. 卵、乳製品不使用のお菓子づくりにはまった
  8. 家族で山歩きできた
    →白馬栂池・八方 美ヶ原 駒ヶ岳千畳敷カール 上高地 黒姫

<気になった作家>

レオ・レオニ
グランマ・モーゼス
フレデリック・バック
掘 文子

上手くいかない状況をいつも誰かに助けてもらえたり、そもそもが厄年のせいだったりしたら楽だけれど、それだと成長の機会を逃してしまうのだろうか。

涙で癒せずやり場もなく、自分で自分をボコボコにするしかない思い。
けれどただ失敗しても、クヨクヨせず進めばいいだけだったりするのだろうか。とにかく何かを責める事はせず、感謝の心を失わず、集中していれば、自分自身で模索し続けることができるのだろうか。
その場にいる人を傷つける弱さもある。その場には自分も含まれている。一人きりでいても自分と向き合う場がある。その場には色々な自分がいる。そういう「場」を意識できないと向き合いづらいのだろうか。

場に向ける事で自然に助けあえる思い。
人に向ける事で互いに癒され場も良くする思いがある。
どちらの思いも自己犠牲や奉仕とは離れていないと誰も幸せにできない。
何か上手くいかないときは、思いの注ぎ先を間違えているのかも?集中力が下がっているのかも?
寝て起きると考えが変わっているかも?

よい場を作れるようになりたい。

描きすぎないこと

フレデリック・バックのアニメーション『木を植えた男』をみました。
登場する人物や背景が部分的にしか描かれていなかったりするのですが、動く事によってその足りない部分が想像できて、しかも重心がしっかり描かれているからかリアルな映像までもがちらついて、わぁ♪となりました。
木漏れ日の森の中を歩くシーンはほぼ光の部分だけが描かれていて、でも「あーそうそうそういう風にキラキラしてて気持ちがいいんだよねー」って、自分の記憶の欠片を呼び起こされる感覚・・。それがとても心地よく、心が動かされたように思います。

そういう、光や色のあざやかさや風や空間を感じさせる表現って憧れ!
でも実はその効果って受けて側の記憶の欠片を呼び起こすものなのかな?紙に描かれてるわけだから、本物のように見せるのは難しい。記憶をどれだけ引っ張り出せるかみたいな所なのでしょうか。

そう考えると、全てを描いてしまうとそれが難しくなるのかもしれないとも思えてきました。想像をかき立てる表現の力。素晴らしいなぁ。
そして別のアニメーションではその表現によって非現実の世界が表現されたシーンとの境目がとても自然・・という言い方で上手く言えてるか分からないけれど、自然にファンタジーの世界に引き込まれて、そこでまた わぁ♪となれたのでした。

ストーリーも素敵でしたが、光や色のあざやかさや風や空間を感じさせられることで素敵さが引き立っていました。まるで自分もその場にいるかのような感覚に近い状態になれるのです。

じつは、このアニメーションの話は随分前に夫から聞いた事があったのですが、多分家事に追われていたり疲れていたりして良さを分かる事ができていませんでした。自分で何かを調べて知る時も、分かったようなつもりになっても実際の理解度は良くて2割で、実際にそれにまつわる体験をした時に初めて8割分かるだけなのではないかという気がしていたのですが、人から聞くともっと分かる事ができないようですね・・、我ながら悲しい・・もったいない・・くやしい。

きちんと興味が湧いたきっかけは、ジブリの『かぐや姫』をみて、いいなぁと思って監督のインタビューを見てたらフレデリック・バックの名前が出たからです。かぐや姫でも全てが描かれていない所に惹かれて、監督もその点で影響を受けたと話されていたので気になりました。
そういえば夫が絶賛していたし、展覧会の図録を持ってたはず〜と思って見てみたけど、静止した絵だと最初はよく分かりませんでした。DVDをみせてもらって初めて心が動いたのです。

これは動きがつかないと出せない良さなのでしょうか?
自作の絵本が3本ありますが、作る度に次回作は背景も描けるようにならなきゃ・・・と思ってすすめてきたのに、最近見返すとなんだかくまっくるの背景のすっきり感が心地よく感じました。今思うと、ストーリーを活かすものが描けていないんだなーと思えます。
想像をかき立てるような背景を目指したいです。

見えてる部分だけ見て分かったつもりになるなんてつまんないですね。見えない部分を見る力ってどんな風に育てればいいんでしょうか。今日のフレデリック・バックのアニメーションを楽しむのに役立ったのは、普段自然物をみて感動した記憶。
かぐや姫の時は、人々の心情が興味深かったから、色々な経験をしてきたことが役だったのかな。それとも、何かによってたくさん心を動かすことがいいのかな?気になります。

のびのび。解放。

諏訪湖畔にあるハーモ美術館の『アンリ・ルソー、グランマ・モーゼスと素朴派の画家達』に行ってきました。素朴派の絵を観るのはおそらく初めて。でも今の日常で良く目にしている自然の風景が描かれていて、現代のイラストレーションにもありそうな雰囲気でとても身近に感じ、初めて観た気がしなくて楽しくなりました。

なかでも、グランマ・モーゼスさんは75歳で本格的に絵筆を取り、評価され、たしか90歳ごろに技術的な全盛期を迎えた(うろおぼえ)とのことで、その頃の絵をみると雪の風景の白に赤い服を着た人が小さく入っていたり、今の私にとってイカした絵を描かれててぐっと惹かれました。

私も今もたもたしてるけど、諦めずにがんばろ!のんびりのろのろでもいいじゃないか〜!と励まされました。
ほんとに今、描きたいけど描けない。子育て中で時間がないというのもあるけれど、きっとあってもきちんと向き合うことが出来なくて現実逃避してしまう。少し前までは人の目が気になりすぎていて、最近ようやく内側からわいてくるものを感じ始めて少し希望が湧いてきました。

そして昨日も書いたけど、子どもがのびのび描いてるのをみると本当に羨ましく・・。大切なのは「のびのびやること」なのかもなーと思えてきました。私は何に邪魔されてのびのびやれなくなったのか?子どものこの“のびのび感”もいつか何かに邪魔されてしまうのか?気になっているところです。

こんな風に、あまり誰も読んで無さそうなここで、未熟さをさらけ出しつつ・・のびのび書いてみようと思います。

今日はサンリツ服部美術館にも行きました。ここでは『色彩の解放 シャガールからクリストまで』が印象に残っています。
写真が普及し始めると絵画はだんだん抽象的な方向へ描かれるようになって、色が自由に用いられて感情が表現されたりしたのだそう。この展示がコンパクトにまとめられていたおかげで私にはとても分かりやすく面白く感じました。
私が観ていて気持ちよく感じたのは、抽象的で要素少なめで質感アリのもの。少し写実的な物に憧れ始めてもいたのですが・・私もきっと解放されたいんだーと思いました 笑。

写真が普及する前の人々は、自分に向き合って感情表現をする習慣も無かったりしたのでしょうか。カラフルなものを観た時に私は心が躍るような気持ちになるけれど、やっぱり色彩と感情の関係は密接なのだなぁ。と気になります。
色彩が解放される前と後で、人間の思考の仕方が変わっているとしたら、いつかその良い所悪い所を比べて改めて自分の思考の仕方を見直したたらまた面白いのかも知れませんねー。