一文に首ったけ

かおじゅうでにっこりわらいました“かおじゅうでにっこりわらいました”

『チム・ラビットのぼうけん』に出てくるこの一文に一目惚れして、色々とかみしめています。

とにかく、かわいく感じて、なぜかスマホの待ち受け画面に表示させ、字面を目にするたびにニヤついてみたり。
今制作中の絵本で、どう描こうか悩んでる表情はきっとこの感じだと思い、息子とどういう顔かな?探って描いてみた中に、亡き母に似た顔が混じっていて、うれしくなったり。

本を2冊とも読み終えると、ほかの章には出て来ない言い回しでした。
とてもしょぼくれた顔をしてた かかし が、主人公と触れあい最も心を動かされた瞬間にうかべた、特別な表情だったようです。

ほかの言葉に書き換えるとどうなる?と考えてみたりしました。
 ・・・たいそう喜んでにっこりしました。
 ・・・とてもうれしそうに満面の笑みを浮かべました。

ここで、「…あ、きっと満面の笑みというのを簡単な言葉にしたのかも?」と想像。そうなると、「あれ?(満面の笑みだと割りと普通の印象)」でした。言い回しでこんなに印象が変わるのか、、か、かわいい!…という具合に、、この一文についてずっと考えてしまっていました(恋?)。

字面からうけるイメージでこんな風になるのが新鮮で、もっと出会いたい、自分も口にしたいし、作品にもちりばめられたらいいのにと、からだじゅうのさいぼうが言う感じなのでした。
ほかの本でもそうなのですが、石井桃子さんの訳、なんて素敵なのでしょう。

チム模写
挿絵もお話も、ものすごく素敵なので、ぜひ本を読んでみてください。
ちょっと特別な子うさぎ、チムの様子が、元気な我が子とも重なり、成長をあたたかく見守るような気持ちで読めました。

『チム・ラビットのぼうけん』
A・アトリー 作
石井桃子 訳
中川宗弥 画
童心社
この本の紹介ページ

おまけ。

11ぴきのねこ人形
これも、かおじゅうでにっこり かな?11ぴきのねこの、とらねこ大将人形。
この人形も母似で、うちの息子にも似てたりするので、少しは私にも似てるんでしょうか?
最近こんな風に笑えているか自信がないので、もっとニコニコしていきたいと思います。

ユーモアの中の哀しさ

jojorabbit drawing

映画『ジョジョ・ラビット』を観て

子ども目線の戦争という感じ…。ユーモアさと、哀しさ・痛みが絡み合う、とても印象に残る作品でした。

お母さん・エルサがとってもきれい。ジョジョの友達かわいい。そして個人的には、テーマの重みに相反する魅力への戸惑い…ユーモアさに対してもそうですが、なかでも街や衣装のデザイン的な魅力には、当時のデザイン戦略?を思い出して少し怖くなったりしました。

鑑賞後もパンフレットで詳しく知れたり、監督と出演者のユーモアたっぷりな仲睦まじいインタビューの様子も楽しいし、ツイッターで色々な人の感想読むのも楽しくて、何週間かたった今もあとを引く気持ちよさがあります。

10歳の息子とも一緒にみました。戦争の話でどうかな…と思いましたが、面白かったそうです。あのシーン辛かったよね、とか、あれはああいうことかな?とか家族で感想を言い合うのを楽しんでいます。

<映画『ジョジョ・ラビット』公式サイト http://www.foxmovies-jp.com/jojorabbit/

癒される文の世界観

児童書を読んで疲れを癒しています。

現実は努力が報わなかったり、うまくいかない事がたくさんですが、私が読んでいる児童書の世界では、純粋にまっすぐ頑張ってる子が必ず救われたり、ロマンチックさに悶えたり。
風刺がきいてても凄く可愛さを感じたり。 読書しない子だったので、いまこの文字だけで感じる可愛さやドキドキや感動が不思議でたまりません。

本、読みたい気持ちはあって読もうとするのに、なかなか進まなくて…という感じだったんですけど、 「いま読んでいる行」に紙をあててみたら、かなり読みやすくなりました。
(気が散って目を離してしまいやすいのかも) 

いま読んでいる行に紙をあてる

またいつか、好きな話も紹介できたらいいなあと思います。

#絵本のあいま

こんな映画の見方

海獣の子供パンフレット

なつのおもいで。
『海獣の子供』を3回観たのですが、偶然楽しい映画の見方をしましたよ。
https://www.kaijunokodomo.com/

1回目。
原作未読の私は、ただただ作り込まれた映像に「な、なんだこれは…!」と打ちのめされました。
プールで泳いだあとだったので、主人公たちが泳ぐシーンで水や光の感触を肌で思い出しました。

その後ネット配信で制作の参考にされたらしいオーシャンズ(2010)や関連作品の実写映像みると「海の生き物の様子、本物だったんだ!」ってただただ感心。

2回・3回とみるうちに、物語が気になっていきました。
それで「この後原作のマンガを読んだら終わりだ、堪能したなあ」と思ったのですが、実際読んだらさらにもう一回映画をみたくなりました。
公開期間がもう少し長ければ4回目もあったかもしれません。

そんな訳で、まるで全身で観たような感覚になったのでした。

同じ会社が作った『鉄コン筋クリート』もやっぱり凄くて、原作と映画は別作品みたいでそれぞれの素晴らしさ。ほかの作品はどんな感じかなあ。

可愛いってなんなのだろう

イルフ童画館チェブラーシカ展チラシ

イルフ童画館の「チェブラーシカ絵本原画展」へ。

この展覧会で、見慣れてるチェブラーシカの姿は原作をもとに色々に表現されたものの中の一つにすぎないという事が分かってなぜか安心した自分に気づく。出会った頃はその愛らしさに惹かれてたはずなのに、今は年のせいか??少し距離ができていて、どちらかというと物語の方が気になっていた。自分も変わったなあと思えて変な感覚になった。でも可愛い姿と距離を置くことで、ほかの作家さんと並列な感じで前よりも作品を深く楽しめたような気がする。
その体験を踏まえて惹かれるところ・距離を置きたいところについて人と話していると、自分の絵に対するモヤモヤに向き合う材料を得られたような気もした。私は、ビジュアル的に強く打ち出さないでキャラクターの魅力を感じさせるやり方をしたいのかもしれない。
個人的にそういうものに芸術性を感じ、目指したいのかも・・

チェブラーシカの可愛さは、私が興味を持つのにとっかかりを良くしてくれたけれど、時間と共に飽きてしまった。そしてしばらくある意味私が作品に深く触れる機会の邪魔をしていたと言える。「可愛い」ってなんなのだろう?可愛いの中に好みか好みじゃないかがあるだけだと言ってしまうとつまらないけど、そこをあえてなんでかなぁと考える事が楽しさにつながる気がする。

絵本の原画に添えられてた文章(物語)がいいなと思ったけど、家に帰ってからみたアニメーションの同じシーンのセリフも新旧それぞれ少しずつ違ってて、でもそれも翻訳の仕方の違いかもしれなかったりで、色んな視点がある事を実感できた。
自分が一生懸命作ったものも、結局色んな価値感を持った目で見られるのだから、自分がこれだ!と思ったり楽しんで作れたなら良くて、さらにそれが誰かに伝わったならとても幸せなことなんだな。

強いビジュアル的魅力を持ったものを少し怖がっている部分があるんだけど、それはもったいないのかもしれない。全部を楽しむのは難しいだろうけれど、出来るだけ良い物に触れられればなぁと思った。

子育てしていると・・

うちの子はまだ4才でまだまだ先の話だけれど、先輩お母さんの話を聞いたり色々な記事を読んでいるうちに、9才ごろにあるらしい子供の変化が気になってきました。
この頃に親を客観視し出してある種の親離れがあるようで、シュタイナー教育に基づいた講座を開いている先生は「9才の危機」と表現していました。

↓このブログもシュタイナー系。
「9才の危機」森へ行こう(心とからだと子育てと)
「9才の危機(その2)」森へ行こう(心とからだと子育てと)
ここを読むと幼い頃に自然や大人との関わりなど、現実社会の中に楽しさを知れている事がこの時期に対しての準備になるとのことです。
自分はどうだったかなぁと考えてしまいます・・。
でも、何の人の手も加わってないものとか、現実的な日々の作業とか人との関わりに楽しさ(日々に喜び)を感じる力が身に付けられていたらとてもいいだろうなぁ、身につけたいなぁと今現在強く思ってはいるのは確か。

そして、このプレゼンも思い出しました。
ベンジャミン・ザンダー「音楽と情熱」TED
これを見てとても感動しのたのですがそれは今はおいておいて、、

ここではクラシック音楽の素晴らしさをプレゼンされています。
子供のピアノの上達の仕方を7才のリズムの取り方は〜という感じで、11才まで説明があって、そこで上手く楽しさが見つけられないと、ピアノを続けられないと言っています。

7才はリズムを一音一音とっていて、11才は楽譜全部でひとつのリズムで捉えて、曲に込められた思いを理解して強弱がつけられるようになるようです。
ですが、うまく理解できないでリズムを細かく単調にとっているだけでは、疲れやすく飽きてしまって続かないとのことで、とても印象に残りました。私自身も習字とかそろばんとかを早いうちから習っていたのに行かなくなってしまったのは、これくらいの時期だった気がします・・

9才ごろにきちんと何かに向き合って、楽しさを見出す経験をして熱中出来るかどうかが大事そうだなぁと思いました。こういう変化があると知っていれば、子供への接し方を比較的考えやすくなりそうですよね。

私はとっくに9才の何倍も生きてしまっていますが、リズムのとり方=意識の仕方と考えて、もう少し疲れない生き方をしたいものだと考えたりしていました 笑。社会活動が怖かったり自信が無かったり、何かに熱中して自分でやり続けていることは無い気がします・・。そして本当にやりたいはずの作品づくりからは逃避しがち。自分の問題としてもこの件に興味がわきました。
子育てしていると、こんな風に自分を育て直しているような気持ちにもなります。

と言いつつ、これまで緊張と緩和とか、ハレとケについて知った時に、同じようにヒントを得られたと思って考えてみてもなかなか上手くやれていなかったりします・・きっと自分でもがくしかないのでしょうね(助けて〜)

2013年の思考まとめ

誰が読むねんパート2!というか、そういえばいつも誰が読むねんな事ばかり書いてましたね・・。結構自分にとって大事なことに気づいた気がする1年だったので書き留めていたメモを元にまとめてみました。全てに(※自分の場合)と注釈がつくような感じです。

  1. 絵が好きだからとか、認められたいとかは、動機にするのは難しい。
  2. 誰にも期待されなくても、下手でも、それは絵を描かない、つくらない理由にはならない。モヤモヤときちんと向き合う事が本気になることと言えるのでは?
  3. 有名な画家のように戦争反対などの強い想いや意志は持てていないが、自分には感動(ワクワクしたり心が動かされたり)したことと、それを人に伝えたいという想いに描かされる状態がきっといい。感動すること、その気持ちを伝えることで、自分の存在も大きく感じられる(自己肯定)。
  4. 色々なものの在り方について、「そこにただ存在するということは、浅い目で見ると当たり前で真新しく見えない。でもあらゆるものも目に見えない独自のルールを持ってそこに存在している。そこがどれだけ整理されているかが、どれだけ洗練されて見えるかに関係してくるのではないか」と思った。
    (堀文子さんの、実物そのものではない整理された線・記号一歩手前のあたたかく心地よい線や配置について考えているうちに気づいた。)
  5. 子供に独自のイメージの世界をつくれるよう、環境を考えて刺激の強い物をできるだけ与えないようにしている事について、自分が人の作ったイメージに侵されているからそうしようと思うのではないか、自分自身が一番恐れていることなのではないかと気づいた。けれど自分の親を見ていると、親自身が子供の頃にした苦労を自分の子にさせたくないと思うのは普通なのかもしれないとも思う。
  6. ファンタジー、想像の世界は特に子供には必要だ。
    現実は生々しく、直視するには負担が大きすぎる。ファンタジーのフィルタを通してワクワク楽しみながら向き合うことを仮経験することで、自立の準備ができるのかもしれない。疲れた大人もファンタジーの力を借りれば現実と向き合えるのでは?
  7. 人が作ったイメージの土台にのっかって考えを書いた文は後から読もうとしても、読み飛ばしたくなる事が多い。
    あとは、時事のことなどは生鮮品のようなもの?とか、自分で考えた事は後で読んでもよい刺激になっていて、積み上がるものなのかも?と思った。
  8. 人との対話が上手くない自分が、つまらない人間なのではないかと苦しくなることがあるが、
    つまらない=分かりにくいというだけのこと、悪い事ではない。
    時間をかけて味にする。身なり、振る舞いは地味でも、在り方・行動を追求し、味のある人間になりたい。と思った。
  9. 疲れやすいのは、一つ一つを意識し過ぎているからなのかもしれない。出来るだけ流すように、一つ一つを軽くしていきたい。

描きすぎないこと

フレデリック・バックのアニメーション『木を植えた男』をみました。
登場する人物や背景が部分的にしか描かれていなかったりするのですが、動く事によってその足りない部分が想像できて、しかも重心がしっかり描かれているからかリアルな映像までもがちらついて、わぁ♪となりました。
木漏れ日の森の中を歩くシーンはほぼ光の部分だけが描かれていて、でも「あーそうそうそういう風にキラキラしてて気持ちがいいんだよねー」って、自分の記憶の欠片を呼び起こされる感覚・・。それがとても心地よく、心が動かされたように思います。

そういう、光や色のあざやかさや風や空間を感じさせる表現って憧れ!
でも実はその効果って受けて側の記憶の欠片を呼び起こすものなのかな?紙に描かれてるわけだから、本物のように見せるのは難しい。記憶をどれだけ引っ張り出せるかみたいな所なのでしょうか。

そう考えると、全てを描いてしまうとそれが難しくなるのかもしれないとも思えてきました。想像をかき立てる表現の力。素晴らしいなぁ。
そして別のアニメーションではその表現によって非現実の世界が表現されたシーンとの境目がとても自然・・という言い方で上手く言えてるか分からないけれど、自然にファンタジーの世界に引き込まれて、そこでまた わぁ♪となれたのでした。

ストーリーも素敵でしたが、光や色のあざやかさや風や空間を感じさせられることで素敵さが引き立っていました。まるで自分もその場にいるかのような感覚に近い状態になれるのです。

じつは、このアニメーションの話は随分前に夫から聞いた事があったのですが、多分家事に追われていたり疲れていたりして良さを分かる事ができていませんでした。自分で何かを調べて知る時も、分かったようなつもりになっても実際の理解度は良くて2割で、実際にそれにまつわる体験をした時に初めて8割分かるだけなのではないかという気がしていたのですが、人から聞くともっと分かる事ができないようですね・・、我ながら悲しい・・もったいない・・くやしい。

きちんと興味が湧いたきっかけは、ジブリの『かぐや姫』をみて、いいなぁと思って監督のインタビューを見てたらフレデリック・バックの名前が出たからです。かぐや姫でも全てが描かれていない所に惹かれて、監督もその点で影響を受けたと話されていたので気になりました。
そういえば夫が絶賛していたし、展覧会の図録を持ってたはず〜と思って見てみたけど、静止した絵だと最初はよく分かりませんでした。DVDをみせてもらって初めて心が動いたのです。

これは動きがつかないと出せない良さなのでしょうか?
自作の絵本が3本ありますが、作る度に次回作は背景も描けるようにならなきゃ・・・と思ってすすめてきたのに、最近見返すとなんだかくまっくるの背景のすっきり感が心地よく感じました。今思うと、ストーリーを活かすものが描けていないんだなーと思えます。
想像をかき立てるような背景を目指したいです。

見えてる部分だけ見て分かったつもりになるなんてつまんないですね。見えない部分を見る力ってどんな風に育てればいいんでしょうか。今日のフレデリック・バックのアニメーションを楽しむのに役立ったのは、普段自然物をみて感動した記憶。
かぐや姫の時は、人々の心情が興味深かったから、色々な経験をしてきたことが役だったのかな。それとも、何かによってたくさん心を動かすことがいいのかな?気になります。

のびのび。解放。

諏訪湖畔にあるハーモ美術館の『アンリ・ルソー、グランマ・モーゼスと素朴派の画家達』に行ってきました。素朴派の絵を観るのはおそらく初めて。でも今の日常で良く目にしている自然の風景が描かれていて、現代のイラストレーションにもありそうな雰囲気でとても身近に感じ、初めて観た気がしなくて楽しくなりました。

なかでも、グランマ・モーゼスさんは75歳で本格的に絵筆を取り、評価され、たしか90歳ごろに技術的な全盛期を迎えた(うろおぼえ)とのことで、その頃の絵をみると雪の風景の白に赤い服を着た人が小さく入っていたり、今の私にとってイカした絵を描かれててぐっと惹かれました。

私も今もたもたしてるけど、諦めずにがんばろ!のんびりのろのろでもいいじゃないか〜!と励まされました。
ほんとに今、描きたいけど描けない。子育て中で時間がないというのもあるけれど、きっとあってもきちんと向き合うことが出来なくて現実逃避してしまう。少し前までは人の目が気になりすぎていて、最近ようやく内側からわいてくるものを感じ始めて少し希望が湧いてきました。

そして昨日も書いたけど、子どもがのびのび描いてるのをみると本当に羨ましく・・。大切なのは「のびのびやること」なのかもなーと思えてきました。私は何に邪魔されてのびのびやれなくなったのか?子どものこの“のびのび感”もいつか何かに邪魔されてしまうのか?気になっているところです。

こんな風に、あまり誰も読んで無さそうなここで、未熟さをさらけ出しつつ・・のびのび書いてみようと思います。

今日はサンリツ服部美術館にも行きました。ここでは『色彩の解放 シャガールからクリストまで』が印象に残っています。
写真が普及し始めると絵画はだんだん抽象的な方向へ描かれるようになって、色が自由に用いられて感情が表現されたりしたのだそう。この展示がコンパクトにまとめられていたおかげで私にはとても分かりやすく面白く感じました。
私が観ていて気持ちよく感じたのは、抽象的で要素少なめで質感アリのもの。少し写実的な物に憧れ始めてもいたのですが・・私もきっと解放されたいんだーと思いました 笑。

写真が普及する前の人々は、自分に向き合って感情表現をする習慣も無かったりしたのでしょうか。カラフルなものを観た時に私は心が躍るような気持ちになるけれど、やっぱり色彩と感情の関係は密接なのだなぁ。と気になります。
色彩が解放される前と後で、人間の思考の仕方が変わっているとしたら、いつかその良い所悪い所を比べて改めて自分の思考の仕方を見直したたらまた面白いのかも知れませんねー。

日常で五感を使うこと

湿気があると草や土の香りは強くなるのかな
この辺は湧き水が美味しくて、ごくごく飲んだり料理に使うためにタンクに汲んでくるのが習慣になっています。

この水を飲んだ時に私は、ただ美味しいってだけじゃなくて水道水に無い甘いというか旨いような味がして美味しい・・と思います。料理して味見する時に味の素因数分解みたいなこと、やりませんか?塩分とあれとこれ(言葉にしにくい・・)とのバランスをみるあの感覚・・湧き水の美味しい部分はあれの、基本ではないその他の部分。深い部分の味で、喜びみたいな「うわぁ〜♪」な感覚をももたらせてくれたりします。(予想以上に言葉にするのが難しい・・!)

この間の、息子が通う園の畑当番の日。とても暑い日で湿気もありました。
牧草地の中にある畑へ向かって歩きながら、「空気が美味しいなぁ。甘いような旨いような・・これが美味しい空気ってやつだなぁ。」と思って、たくさんたくさん深呼吸して幸せになりました。湿気があると草や土の香りが強くなるのでしょうか(田んぼの横でも同じ香りがしました)。
そして、あっ!この美味しさのあの部分、湧き水のと同じかもっ?!と思えました。

自然の中の空気は美味しいっていうのはこれまでも思ってはいましたが、今思うと「みんなそう言ってるし排気ガスとかもないしきっと美味しいんだ〜」くらいの感覚だったのかもしれません。自分で初めて頭ではない部分でその美味しさを実感できたみたいです。この場合は舌と鼻かー。

それから、この夏は車の冷房が苦手になって窓をあけて外の空気を入れながら運転する日々なのですが、住んでる場所がどちらかというと山側で家の方から降りて平地の真ん中へ近づいてくると必ず、外の空気も涼しくなくなって仕方なく冷房を入れることになり、それでまた山側に近づいたら窓を開けて・・という事になります。
窓を開けていると、田んぼや畑や山の中の道では土や草や花や実の香りがして癒されます。牧場の近くでは牛や豚の香り。車が多い道ではやっぱり排気ガスとアスファルトと乾いたホコリっぽい香り。
そんな風に、空気の温度や香りで、あっちからこっちへ空間を移動してるんだなぁと感じられるのが最近なんだか嬉しく思えてきました。この場合は肌と鼻かー。

そうすると五感ではあと目と耳が残っていますが、目はやっぱり色。新緑の黄緑とかを見ると「うわぁ〜♪」です。
耳も、鼻と同じように、虫や鳥の鳴き声などを聴いて、そこにいるなぁと感じながら、自分も移動してるなぁとか思ったりします。

もう何年も前に落ち着いたことなのですが心身を病んだことがあって、一時期喜びを感じることができなくなりました。あのせつなさを思い出すと、今の毎日がとても幸せに思えます。人って五感を使うことが大切なんだなぁと思います。
五感を使ってさきほど書いたように色んなものを立体的?にとらえる事で、自分が今ここにいることを実感できているんじゃないかとふと思えました。
「自分がどの部分を快いと思うか」という自分だけの感覚の位置を確認することができるからかな?
やっぱり上手く表現できませんが・・・。最近すぐ行きたくなる山の上にもこの快さがある気がします。

そういう意味ではテレビやパソコンは平面的なので、やっぱり違うんだと思います。

そして逆の話も・・・
添加物たくさんのものを食べた時、「うわぁ〜♪」な部分は全く無く満足感が乏しい・・。基本の部分の味はしっかりあるけど、しっかりはっきりしすぎて違和感があります。それでなんかずっと口の中に残り続けます・・口の中にずっと居座られます。。

この間、とてもとても久しぶりに電気屋さんへ行きました。
すると、とてもとても居心地が悪く・・・気分が悪くなってしまいました。なんでなんだろう??

あと、コンビニが好きじゃなくなってきました。どこでもほぼ同じでその場所にいる感覚になりにくいからです。そしてこのへんはコンビニ跡に建物をほぼそのままで改装して別の飲食店になったりする事が多く、すぐコンビニ跡だなぁって分かってしまってその土地らしさが薄くなるから、嫌だなぁと。
頭では添加物の事も考えると・・っていうのもあるけど、自然の中で感じるあの快さを感じる場所とは反対の存在なので、五感的にも嫌だなぁと感じてしまいます。そうか、電気屋さんの時の嫌な感覚もそれなのかもしれません。テレビやパソコンの中には、あの快さを感じられません。

あの快さ、の感覚、これはなんなんだろう?
快さを知ったから、それとは違うものを快くないと感じるようになりました。
不思議。でもとても大切な感覚。日々の小さな幸せです。